以前、ヌプチェン・サンギェ・イェシェ(གནུབས་ཆེན་སངས་རྒྱས་ཡེ་ཤེས་ gnubs chen sangs rgyas ye shes)の年代を推測するのに使った史料で、
・ཉང་རལ་ཉི་མ་འོད་ཟེར་ nyang ral nyi ma 'od zer (12C後半?) 『ཆོས་འབྱུང་མེ་ཏོག་སྙིང་པོ་སྦྲང་རྩིའི་བཅུད། chos 'byung me tog snying po sbrang rtsi'i bcud/ (花蘂の蜜汁なる仏教史)』
→ 通称 : 『ཉང་རལ་ཆོས་འབྱུང་། nyang ral chos 'byung/ (ニャンレル仏教史)』
という文献があります。
現物は所有していないので、その内容は部分的に毎度おなじみの
・Vitali (1996) 前掲.
から孫引きしています。
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そこに、ས་སྒང་འབྲོག་མི་ sa sgang 'brog miという集団が現れます。
一箇所はンガリー・コルスム諸王朝の祖キデ・ニマゴン(སྐྱིདལྡེ་ཉི་མ་མགོན་ skyid lde nyi ma mgon)が西遷しようとするときに、その父ペルコルツェン(དཔལ་འཁོར་བཙན་ dpal 'khor btsan)王がアドヴァイスをするという場面です(注1)。時代は10世紀初。
┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐
ティ・キデ・ニマゴンが御馬の口を上手へ向け、上手領土(མངའ་རིས་སྟོད་ mnga' ris stod)へとお移りになる際に、御父上の御口から発せられた「谷が開けたところに住んでいるような者たちであるロ・モン(ལྷོ་མོན་ lho mon)、ブルシャ(བྲུ་ཤ་ bru sha)、バルティ(སྦལ་ཏི་ sbal ti)、サガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)など、人とも人にあらざる者ともつかぬ連中がおって危険が多いから、守護神(ཡི་དམ་ yi dam)・護法神(སྲུང་མ་ srung ma)への顕密の儀式の数々を怠ることのなきように」という戒めを堅守しておられるので、ンガリー王(བཙད་པོ་ btsad po)方々の存在そのものが社稷・領土繁栄を保つ大いなる源なのである。
└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘
逐語訳に近い体裁をとっているので、日本語の文章としてはややギクシャク、ダラダラしていますが、チベット文語とはこういう文章なのです。
キデ・ニマゴンの行き先である西チベットのさらに先に住み、敵対する可能性のある集団として、ロ・モン、ブルシャ、バルティ、そしてサガンのドクミの名が挙げられています。
ロ・モンとは、「南のモン」すなわち「ヒマラヤ南縁の異民族」。モンはチベット側から見て、ヒマラヤとインド平原部の間に住む集団の多くに与えられる名称(注2)で、かなり漠然とした表現です。ここでは、西部ヒマラヤ南縁の、大勢力とまでは言えない集団やあまり接触がない集団を、十把一絡げにして挙げたものと考えてよいでしょう。
次のブルシャ、バルティはより具体的です。ブルシャは現在のギルギット~フンザの人々、バルティはいうまでもなくバルティスタンの人々を指します。
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そして問題のサガン・ドクミ。まず「サガン ས་སྒང་ sa sgang」とは何でしょうか?
Vitali(1996)では、一般名詞という解釈をとります。訳語は「雨の降る土地」となっていますが、その根拠はよくわかりません。一般名詞ならば「土盛り/小山」あたりがふさわしい気がします。
都市部から離れた山岳部という意味なのでしょうか?あるいは、土葬の風習(つまり土饅頭)を表したものかもしれません。
しかしこの文脈からすると、地名である可能性の方が高いと思われます。となると、その場所はブルシャ、バルティの近隣に違いありません。
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俄然注目されるのは、ギルギットの古名あるいは雅名とされる「Sargan/Sarjan/Sargin」です。「Sargin-Gilit」と併称されることが多いようです。「sa sgang」は、この名称のチベット語による音写ではないでしょうか。
この場合、ブルシャがすでに挙げられているのにもかかわらず、さらにギルギットが現れるのは違和感を覚えます。しかし、10世紀当時には国名・地域名としては「ボロル/ブルシャ」がまだ現役でした。ギルギットの方は地域名ではなく、まだ国内の都市名にすぎなかったことでしょう。
ギルギットは、一貫してボロル国(分裂後の小勃律)の都であったとみられています。古代にはヤスィン(Yasin)が中心地であった、という説もありますが、磨崖仏や経典が発見された仏塔群などがあるギルギット周辺の方がやはり都にふさわしい、と感じます。
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そして、「sa sgang」に続く「'brog mi」。これはブロク・ユルの「'brog pa」につながる名称でしょう。となれば、ダルド系民族(シン人)を指している可能性大です。
ボロル/ブルシャの原住民は、おそらくブルシャスキー語(もしくはその原語=仮称:ブルシャ語)話者であったろう、と私は推測しています。一方シナー語を話すシン人は、南方から徐々にボロルに進出して行き、上位階級を占めるようになったとみられています。
ブルシャとサガン・ドクミ(ギルギットのシン人)が別扱いされているのは、ボロル国主流(王家と原住民)をブルシャと呼び、新興勢力シン人を「サガンのドクミ」と呼び区別したのではないでしょうか。
ギルギットはボロル/ブルシャの王都ながら、10世紀には新興シン人が多数派を占める、という現在につながる状況ができつつあったのかもしれません。
以下、次回。
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(注1)
一般には、キデ・ニマゴンの西遷はペルコルツェン暗殺後のこととされています。ですから、上記エピソードが史実であるのかは、疑問の残るところです。しかし、西遷前からキデ・ニマゴンが西部チベット方面に興味を持っていたとすれば、実際にこのような会話が交わされた可能性はあるでしょう。
(注2)
「མོན་ mon モン」の語源は、中国語の「蛮(中古音:man)」と同一ではないか、という説があります。「蛮」の方も「南蛮」という具合に、南の異民族に与えられる名称であることが共通しています。
となると、「mon」は中国語からの借用語、と思い込みがちですが、「mon」も「蛮」も共にシナ・チベット語族の祖語(古代羌語はその候補の一つ)から分岐した、という可能性も考慮すべきでしょう。
参考:
・T.S. Murty (1969) A Re-appraisal of the Mon-Legend in Himalayan Tradition. Central Asiatic Journal, vol.13, no.2, pp.291-301.
・Françoise Pommaret (1999) The Mon-pa Revisited : In Search of Mon. IN : Toni Huber (ed.) (1999) SACRED SPACES AND POWERFUL PLACES IN TIBETAN CULTURE : A COLLECTION OF ESSAYS. pp.52-73. LTWA, Dharamsala.
シナ・チベット語族の祖語については、
・橋本萬太郎 (1981) シナ・チベット諸語. 北村甫・編 (1981) 『講座 言語 第6巻 世界の言語』所収. pp.149-170. 大修館書店, 東京.
あたりをまずご覧下さい。
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