2016年2月20日土曜日

ロツァワ・リンチェン・サンポ

次回、スピティ・キー寺座主ロチェン・リンポチェを取り上げる関係上、今回は前置き(にしては長いが)として、その先世であるロツァワ・リンチェン・サンポについて書きます。

これも例のヒマーチャル・ガイドブック(未刊)より。もはやヒマーチャルだけではない上に、「小出し」劇場でもなくなっているので、同シリーズからは外しました。

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ロツァワ・リンチェン・サンポ ལོ་ཙྪ་བ་རིན་ཆེན་བཟང་པོ། lo tstsha ba rin chen bzang po(958-1055)











スピティ・キー寺のリンチェン・サンポ像

ロツァワ ལོ་ཙྪ་བ་ lo tstsha ba/ལོ་ཙཱ་བ་ lo tsA baとは「訳経師/訳経僧」の意味。ロチェン ལོ་ཆེན་ lo chen(大訳経師/僧)とも呼ばれる。10世紀末~11世紀半ばにかけてグゲ གུ་གེ gu ge王国で数々のインド仏典をチベット語に翻訳し、仏教復興に大きな貢献をした。

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リンチェン・サンポの本名はリンチェン・ワンチュク རིན་ཆེན་དབང་ཕྱུག rin chen dbang phyug。生地はグゲ西部(ロンチュン རོང་ཆུང་ rong chung)のキュワン・レーニー སྐྱུ་ཝང་རད་ནིས་ skyu wang rad nis。Sutlej川(ランチェン・ツァンポ གླང་ཆེན་གཙང་པོ་ glang chen gtsang po)南岸の小さな村で、サン བཟང་ bzangの隣り村。

リンチェン・サンポの生家は、先祖がKashmir ཁ་ཆེ་ kha cheから移住してきたユダ གཡུ་སྒྲ g-yu sgra氏に属する。ユダ氏はグゲ西部ロンチュン一帯に大きな力を持つシェン གཤེན་ gshen(ボン教司祭)の一族であった。後にロチュン ལོ་ཆུང་ lo chung(小訳経僧)として知られるようになるレクペー・シェーラブ ལེགས་པའི་ཤེས་རབ་ legs pa'i shes rabもまた、この氏族出身でリンチェン・サンポのいとこに当たる。

958年、父ワンチェンポ・ションヌ・ワンチュク བན་ཆེན་པོ་གཞོན་ནུ་དབང་ཕྱུག ban chen po gzhon nu dbang phyug、母クンザン・シェーラブ・テンマ ཀུན་བཟང་ཤེས་རབ་བསྟན་མ་ kun bzang shes rab bstan maの次男として生まれた。兄弟は、兄の他に弟が一人、妹が一人いた。長兄を除く三人はいずれも仏門に入っている。

リンチェン・ワンチュクが生まれる前、母の両肩と頭にクジャク、カッコー、オウムの三羽の鳥が止まり体の中に消えた。そして生まれた子供は鳥の顔、鳥の目をしていたという。アルチ ཨལ་ལྕི་ al lciやマンギュ མང་རྒྱུ mang rgyuなどに11世紀に描かれたリンチェン・サンポの肖像壁画が残っている。これを見ると確かに鳥に似た顔をしている。

鳥の顔をしたリンチェン・サンポの肖像画はこちら↓

・དཔལ་འབྲུག་པའི་འཁོར་ཚོགས་ཆེན། dpal 'brug pa'i 'khor tshogs chen/ THE ANNUAL DRUK PA COUNCIL > Support ADC > ARTICLES ON PAST ADCS > About Ladakh (POST 17 APRIL 2011)
http://www.drukpacouncil.org/support-adc/229-english-categories/articles-on-past-adcs/332-about-ladakh-en.html?showall=1&limitstart=

これは、ラダック、アルチ・チョスコル・ゴンパのロツァワ・ラカンの壁画。

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リンチェン・ワンチュクは13歳(970年頃)で出家。レクパ・サンポ ལེགས་པ་བཟང་པོ་ legs pa bzang poの下で学び、リンチェン・サンポの法名を授かった。

リンチェン・サンポは975年17歳の時、仏教修行のため当時の仏教先進国カシミールへの留学を決意する。当時仏教復興を進めていたソンゲ སྲོང་ངེ་ srong nge王(後のララマ・イェシェ・ウー ལྷ་བླ་མ་ཡེ་ཤེས་འོད་ lha bla ma ye shes 'od)の命により派遣された21人の留学生の一人であったと言われているが、実際はリンチェン・サンポ個人の意志によるものとも伝えられている。

故郷を出発したリンチェン・サンポは、キナウル ཁུ་ནུ་ khu nu、Lahaul གར་ཞ་ gar zhaを経て、さらにおそらくはChamba、Kishtwarを経てKashmirに到着した。

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ここで、

パンディタ・グナミトラ པཎྜི་ཏ་གུ་ཎ་མིཏྲ། paNDi ta gu Na mitra/
ダルマシャーンティ དྷརྨཤན་ཏི། dharmashan ti/
パンディタ・チェンポ・シュラッダーカラヴァルマン པཎྜི་ཏ་ཆེན་པོ་ཤྲདྡྷ་ཀ་ར་ཝརྨ།  paNDi ta chen po shraddha ka ra varma/(後にグゲにも招かれた)
ブッダシュリー བུ་དྡྷ་ཤྲི bu ddha shri/

など、多くの高僧に師事し学んだ。

ここで習得した『金剛頂経』、『秘密集会タントラ』、『サンヴァラ・タントラ』などの密教経典は、その後のチベット密教の大きな柱となった教義である。カギュパ祖師のナーローパ ན་རོ་པ་ na ro paにも師事し「大印の秘法 ཕྱག་རྒྱ་ཆེན་པོ། phyag rgya chen po/」を学んだとも伝えられるが、リンチェン・サンポの翻訳経典にはこれに関係したものがみられないため、疑問視する説もある。

さらに東インド(おそらくVikramashila विक्रमशिला僧院)にも出向き、ここでも多くの師について修行を続けた。

リンチェン・サンポのKashmir/東インドでの修行は13年間にも及んだ。この間リンチェン・サンポは学んだ経典を次々にチベット語に翻訳していった。

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987年、リンチェン・サンポは故郷レーニーへ戻り、王家の歓迎を受けた。同時期にグゲより派遣された若者たちは、環境の変化に耐えられずみな病死してしまい、残ったのはリンチェン・サンポとレクペー・シェーラブのみだったという。

リンチェン・サンポはプラン སྤུ་ཧྲང་ spu hrangのシエル ཞེར་ zherに土地を与えられ、ここでインド仏典のチベット語翻訳作業を再開。これは彼の生涯をかけた大事業となった。

プランでは現地のボン教行者を調伏し同地では大きな尊敬を受けたという。

996年グゲ王国は領内各地に寺院の建立を開始する。イェシェ・ウーの主導により、

グゲにはトリン寺 མཐོ་ལྡིང་ཆོས་འཁོར། mtho lding chos 'khor/









マルユル མར་ཡུལ་ mar yul(ラダック ལ་དྭགས་ la dwags)にはニャルマ寺 ཉར་མ་ཆོས་འཁོར། nyar ma chos 'khor/










プランにはコジャ寺 ཁ་ཆར་ཆོས་འཁོར། kha char chos 'khor/









が建てられた。なお、コジャ寺の建立は、995年に即位したばかりのラ・デ ལྷ་ལྡེ་ lha lde王が主導したようだ。

スピティ སྤྱི་ཏི་ spyi tiのタボ寺 ཏ་བོ་ཆོས་འཁོར། ta bo chos 'khor/





も同年の創建と考えられている。伝承では、リンチェン・サンポはそれぞれの寺院を一夜で完成させたと伝えられている。

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この寺院造営が一通り完了すると、リンチェン・サンポは二度目のカシミール留学に向かう(996-1001)。今回の目的は、前回カシミールに残した経典を持ち帰ることと、寺院装飾のためのカシミール仏師・絵師をグゲに招請することであった。またこの際には5人の若者をカシミールに連れていった。このうち後にグゲに帰還した3人、

マンウェル・ロツァワ・チャンチュブ・シェーラブ མང་ཝེར་ལོ་ཙྪ་བ་བྱང་ཆུབ་ཤེས་རབ། mang wer lo tstsha ba byang chub shes rab/
マ・ロツァワ・ゲウェー・ロドゥー རྨ་ལོ་ཙྪ་བ་དགེ་བའི་བློ་གྲོས། rma lo tstsha ba dge ba'i blo gros/
ザンロ・ロツァワ・リンチェン・ションヌ འཛང་ལོ་ལོ་ཙྪ་བ་རིན་ཆེན་གཞོན་ནུ། 'dzang lo lo tstsha ba rin chen gzhon nu/

らは、ロチュン「小訳経僧」としてリンチェン・サンポと共に経典翻訳に従事することとなる。

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1001年、リンチェン・サンポは32人の仏師・絵師を連れだってグゲに帰国した。11世紀に建立・増改築された寺院にはカシミール様式の建築様式、仏像、壁画が残っているが、これらはリンチェン・サンポが連れてきた仏師・絵師によるものと考えられている。

グゲに戻るとリンチェン・サンポは、パンキュー(パンクン)・ロツァワ སྤང་ཁྱུད་(པང་ཀུང་)ལོ་ཙྪ་བ་ spang khyud (pang kung) lo tstsha ba、インド/カシミールから招いた多くの高僧と共に経典翻訳に励んだ。

リンチェン・サンポらが訳出・改訂した経典、そしてその註釈はチベット大蔵経にも多数収められている。その数はカンギュール བཀའ་འགྱུར་ bka' 'gyurには17篇、テンギュール བསྟན་འགྱུར་ bstan 'gyurには140篇に及ぶ。特に『初会金剛頂教』、『秘密集会タントラ』をチベットに紹介したことは、その後のチベット密教の方向性を決定することになる重要な業績。当時のグゲ系寺院に残されている壁画には、金剛界曼荼羅が多数残されており、当時の最先端流行教義であったことが伺える。

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リンチェン・サンポの四大高弟として知られるのは、

ロチュン・レクペー・シェーラブ
マンナンのグルシン・ツォンドゥー・ギャルツェン མང་ནང་གི་གུར་ཤིང་བརྩོན་འགྲོས་རྒྱལ་མཚན། mang nang gi gur shing brtson 'grus rgyal mtshan/
ダパ・ションヌ・シェーラブ གྲྭ་པ་གཞོན་ནུ་ཤེས་རབ། grwa pa gzhon nu shes rab/
キーノル・ジニャーナ(イェシェ・ワンチュク) སྐྱི་ནོར་ཛྙཱན། (ཡེ་ཤེས་དབང་ཕྱུག) skyi nor dznyAna/ (ye shes dbang phyug)

四大高弟を、

カツェワ・リンチェン・シェーラブ ཁ་ཙེ་བ་རིན་ཆེན་ཤེས་རབ། kha tse ba rin chen shes rab/
キェンウェルワ・シェーラブ・ダムパ སྐྱེན་ཝེར་བ་ཤེས་རབ་དམ་པ། skyen wer ba shes rab dam pa/
キタンパ・イェシェ・ペル ཁྱི་ཐང་པ་ཡེ་ཤེས་དཔལ། khyi thang pa ye shes dpal/
ドルポパ・チャンチュブ・ニンポ དོལ་པོ་པ་བྱང་ཆུབ་སྙིང་པོ། dol po pa byang chub snying po/

とする説もある。この中に『リンチェン・サンポ伝』の著者ペル・イェシェ(イェシェ・ペル)の名がある。

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この他、ロチェンおよびロチュンの弟子には、

プランパ・アントン・ダクリン སྤུ་ཧྲངས་པ་ཨན་སྟོན་གྲགས་རིན། spu hrangs pa an ston grags rin/
ギャ・イェツル རྒྱ་ཡེ་ཚུལ། rgya ye tshul/
グンパ・ゲシェ གུང་པ་དགེ་ཤེས། gung pa dge shes/
マルユルワ・コンチョク・ツェク མར་ཡུལ་བ་དཀོན་མཆོག་བརྩེགས། mar yul ba dkon mchog brtsegs/
ニャン・トゥー・ギャンロ・ベウマルのキャンパ・チュールー མྱང་སྟོད་རྒྱང་རོ་སྦེའུ་དམར་གྱི་རྐྱང་པ་ཆོས་ལོས། myang stod rgyang ro sbe'u dmar gyi rkyang pa chos los/
シャンのスムトン・イェバル ཤངས་ཀྱི་སུམ་སྟོན་ཡེ་འབར། shangs kyi sum ston ye 'bar/
ニャン・トゥーのチェシャル མྱང་སྟོད་ཀྱི་ལྕེ་ཞར། myang stod kyi lce zhar/
パンカ・ダルチュンの父ションヌ・ギャムツォ སྤང་ཁ་དར་ཆུང་གི་ཕ་གཞོན་ནུ་རྒྱ་མཚོ། spang kha dar chung gi pha gzhon nu rgya mtsho/
レートゥーのダクテンパ ལས་སྟོད་ཀྱི་བྲག་སྟེངས་པ། las stod kyi brag stengs pa/
クルチンルのマルトン・チューキ・ギャルツェン ཀུལ་འཆིང་རུའི་དམར་སྟོན་ཆོས་ཀྱི་རྒྱལ་མཚན། kul 'ching ru'i dmar ston chos kyi rgyal mtshan/
ドクパ・ロトン ལྡོག་པ་ཀློ་སྟོན། ldog pa klo ston/
ベル・シャキャ・ドルジェ བལ་ཤཱཀྱ་རྡོ་རྗེ། bal shAkya rdo rje/
タントン・コンカワ ཐང་སྟོན་ཀོང་ཁ་བ། thang ston kong kha ba/
ドク・ドンカワ ལྡོག་གྲོང་ཁ་བ། ldog grong kha ba/
ンゴク・ゲセルワ རྔོག་གེ་སེར་བ། rngog ge ser ba/
シャンのセーイェション ཤངས་ཀྱི་སད་ཡེ་གཞོན། shangs kyi sad ye gzhon/

など多数。

ザンスカル ཟངས་དཀར་ zangs dkarで盛んに布教を行い、1076年のトリン・チョスコル མཐོ་ལྡིང་ཆོས་འཁོར་ mtho lding chos 'khorにも参加したザンスカル・ロツァワ・パクパ・シェーラブ ཟངས་དཀར་ལོ་ཙཱ་བ་འཕགས་པ་ཤེས་རབ་ zangs dkar lo tsA ba 'phags pa shes rabはレクペー・シェーラブに学んだ僧で、リンチェン・サンポの孫弟子に当たる。

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1024年イェシェ・ウーがトリンで亡くなった際に、枕経を読んだのはリンチェン・サンポであった(注)。この時にラ・デ王は退位し出家、その息子ウー・デ འོད་ལྡེ་ 'od ldeが王位を継いだ。イェシェ・ウーの供養のため、領内各地には21の寺院が建てられた。リンチェン・サンポはKashmir仏師・絵師を用い、これも滞りなく完了させた。西チベット一帯にはリンチェン・サンポが建てた寺院は108あると伝えられているが、その位置についてはまだ同定されていないものが多い。

リンチェン・サンポは、呪術的な力を有するラマとしても崇められている。寺院建立の際には、これを阻止しようとする土着の悪鬼を調伏したという伝説も各地に残されている。

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リンチェン・サンポがインドよりもたらしたものは、経典や仏教美術だけではなかった。数々の尊格もインドから招来している。最も有名な尊格はパンデン・ラモ དཔལ་ལྡན་ལྷ་མོ་ dpal ldan lha moという護法女尊。当初この尊格はドルジェ・チェンモ རྡོ་རྗེ་ཆེན་མོ་ rdo rje chen moの名で知られており、リンチェン・サンポがインド・マガダ मगध  མ་ག་དྷ་ ma ga dhaから招来したもの。リンチェン・サンポの守護女尊、さらにはグゲ王国の守護女尊として西チベット各地で祠られている。

仏教布教を阻む土着の精霊を調伏するために、グルキ・ゴンポ གུར་གྱི་མགོན་པོ་ gur gyi mgon poという護法尊とその教義も招来している。この際に、この護法尊を祠る楽曲を同時に招来。これらは弟子マルギョ・ロツァワ・ロドゥー・ダクパ མལ་གྱོ་ལོ་ཙཱ་བ་བློ་གྲོས་གྲགས་པ་ mal gyo lo tsA ba blo gros grags paに託された。マル・ロツァワはこれをサキャパ ས་སྐྱ་པ་ sa skya pa開祖サチェン・クンガ・ニンポ ས་ཆེན་ཀུན་དགའ་སྙིང་པོ་ sa chen kun dga' snying poに授け、以来グルキ・ゴンポはサキャパの守護尊となった。一方グルキ・ゴンポの楽曲は次第に廃れていったが、15世紀に新サキャパの一派ンゴルパ ངོར་པ་ ngor paを開いたンゴルチェン・クンガ・サンポ ངོར་ཆེན་ཀུན་དགའ་བཟང་པོ་ ngor chen kun dga' bzang poがこの楽曲を復活させ、ンゴル寺 ངོར་ཨེ་ཝཾ་ཆོས་ལྡན་དགོན་པ་ ngor e waM chos ldan dgon paの十八楽曲として完成させた。

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1042年、当時僧形のまま王位についていたチャンチュブ・ウー བྱང་ཆུབ་འོད་ byang chub 'odは、東インド・ヴィクラマシーラ僧院の院長であるパンデン・アティーシャ अतिश  དཔལ་ལྡན་ཨ་ཏི་ཤ dpal ldan a ti sha(ジョウォジェ ཇོ་བོ་རྗེ་ jo bo rje/दीपङ्कर श्रीज्ञान Dipamkara Shrijinyana、982-1054)のグゲへの招聘に成功する。当時リンチェン・サンポはすでに八十代であったが、アティーシャに弟子入りし教えを請うたという。さらにアティーシャより翻訳作業の援助を要請されたが、老齢を理由にこれを辞退したため、アティーシャは非常に落胆したという。

アティーシャはグゲ滞在中『菩提道灯論(チャンチュブ・ラムドン བྱང་ཆུབ་ལམ་སྒྲོན། byang chub lam sgron/)』を著し、後のチベット仏教に大きな影響を与えた。

1044年アティーシャはドムトンパ・ギャルウェー・チュンネーའབྲོམ་སྟོན་པ་རྒྱལ་བའི་འབྱུང་གནས་ 'brom ston pa rgyal ba'i 'byung gnasの招きに応じて中央チベットへ向かい、1054年ニェタン མཉེས་ཐང་ mnyes thangで入滅した。アティーシャの法系はドムトンパに引き継がれ、カダムパ བཀའ་གདམས་པ་ bka' gdams paという宗派となり発展した。カダムパは、14~15世紀ツォンカパ ཙོང་ཁ་པ་ tsong kha paが開いたゲルクパ དགེ་ལུགས་པ་ dge lugs paに吸収される形で消滅する。

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11世紀の半ばともなると、すでにリンチェン・サンポに続く訳経僧も育ち、彼の晩年は翻訳作業からは引退し、瞑想修行を送る毎日であったという。

リンチェン・サンポはアティーシャの入滅を追うようにして1055年、98歳の長寿を全うして亡くなった。入滅の場所はカツェ ཁྭ་ཙེ་ khwa tseのゴカル寺 གོ་ཁར་ལྷ་ཁང་ go khar lha khangともプランのオムロ窟 འོམ་ལོ་བྲག་ཕུག 'om lo brag phugとも言われている。

リンチェン・サンポの死後、その弟子ペル・イェシェによって、リンチェン・サンポの伝記が綴られトリン寺に収められた。現在3つのヴァージョンがあることが知られている。

後にはリンチェン・サンポの転生者が選ばれるようになった。この転生者はロチェン・リンポチェ ལོ་ཆེན་རིན་པོ་ཆེ་ lo chen rin po cheと呼ばれ、代々スピティ・キー・ゴンパ སྤྱི་ཏི་དཀྱིལ་དགོན་པ་ spyi ti dkyil dgon paの座主を努めるようになる。現在のロチェン・リンポチェは19世である(リンチェン・サンポを6世と数える)。

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(注)

このblogで断片的に何度かしている話題です。

「グゲ王イェシェ・ウーが、インドから高僧を招くための黄金を集めに出征したが、カルロク གར་ལོག gar log(おそらくテュルク系民族カルルク)に捕縛され獄死した」というストーリーは誤伝で、実はイェシェ・ウーはトリンで大往生した、という話。

今回こそきっちり説明しようと思ったが、注でやるにはベラボーに長くなるので、やっぱり別に立てることにします。

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参考:

・གུ་གེའི་ཁྱི་ཐང་བ་དཔལ་ཡེ་ཤེས། gu ge'i khyi thang ba dpal ye shes/(ゲゲのキタンワ・ペル・イェシェ) (11C)བླ་མ་ལོ་ཙྪ་བ་ཆེན་པོའི་རྣམ་པར་ཐར་པ་དྲི་མ་མེད་པ་ཤེལ་གྱི་འཕྲེང་བ་ཞེས་བྱ་བ་བཞུགསོ། bla ma lo tstsha ba chen po'i rnam par thar pa dri ma med pa shel gyi 'phreng ba zhes bya ba bzhugso/(導師大訳経僧の無垢なる伝記、水晶の連珠) IN : G. Tucci (1988) RIN-CHEN-BZAŃ-PO. pp.103-121. Aditya Prakashan, New Delhi.
・གུ་གེ་ཁྱི་ཐང་པ་དཔལ་ཡེ་ཤེས། gu ge khyi thang pa dpal ye shes/(グゲ・キタンパ・ペル・イェシェ)(11C) བྱང་ཆུབ་སེམས་དཔའ་ལོ་ཙྪ་བ་རིན་ཆེན་བཟང་པོའི་འཁྲུངས་རབས་དཀའ་སྤྱད་སྒྲོན་མ། རྣམ་ཐར་ཤེལ་ཕྲེང་ལུ་གུ་རྒྱུད་ཅེས་བྱ་བ་གཞུགས་སོ། byang chub sems dpa' lo tstsha ba rin chen bzang po'i 'khrungs rabs dka' spyad sgron ma/ rnam thar shel phreng lu gu rgyud ces bya ba gzhugs so/(菩薩である訳経僧リンチェン・サンポの生涯と偉業の灯明、不断の水晶連珠なる伝記) IN : D. Snellgrove, T. Skorupski (1980) THE CULTURAL HERITAGE OF LADAKH 2. pp.101-111. Vilkas Publishing House, Ghaziabad (U.P.).
・བུ་སྟོན་རིན་ཆེན་གྲུབ། bu ston rin chen grub(プトゥン・リンチェンドゥプ) (1322) བདེ་བར་གཤེགས་པའི་བསྟན་པའི་གསལ་བྱེད་ཆོས་ཀྱི་འབྱུང་གནས་གསུང་རབ་རིན་པོ་ཆེའི་མཛོད།  bde bar gshegs pa'i bstan pa'i gsal byed chos kyi 'byung gnas gsung rab rin po che'i mdzod/(如来の教えを説く法の生ずる様(仏教史)、貴言の蔵)
→略称 : བུ་སྟོན་ཆོས་འབྱུང་། bu ston chos 'byung/(プトゥン仏教史)
・འགོས་ལོ་ཙཱ་བ་གཞོན་ནུ་དཔལ། 'gos lo tsA ba gzhon nu dpal/(グー・ロツァワ・ションヌ・ペル) (1476-78) བོད་ཀྱི་ཡུལ་དུ་ཆོས་དང་ཆོས་སྨྲ་བ་ཇི་ལྟར་བྱུང་བའི་རིམ་པ་དེབ་ཐེར་སྔོནཔོ། bod kyi yul du chos dang chos smra ba ji ltar byung ba'i rim pa deb ther sngon po/ (チベット国の仏教と導師らが如何にして現れたかの経緯であるところの青史)
→ 略称 : དེབ་ཐེར་སྔོནཔོ། deb ther sngon po/ (青史)
・གུ་གེ་མཁན་ཆེན་ངག་དབང་གྲགས་པ། gu ge mkhan chen ngag dbang grags pa/(グゲ・ケンチェン・ンガワン・ダクパ) (1497) མངའ་རིས་རྒྱལ་རབས། mnga' ris rgyal rabs/(ンガリー王統記) IN: R. Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG. pp.1-85. Dharamsala, India.
・འབྲུག་ཆེན་བཞི་པ་ཀུན་མཁྱེན་པདྨ་དཀར་པོ། 'brug chen bzhi pa kun mkhyen padma dkar po/(ドゥクチェン四世クンキェン・ペマ・カルポ) (1575-80) ཆོས་འབྱུང་བསྟན་པའི་པདྨ་རྒྱས་པའི་ཉིན་བྱེད། chos 'byung bstan pa'i padma rgyas pa'i nyin byed/(仏教の大輪蓮華の輝きであるところの仏教史)
→ 略称 : ཆོས་འབྱུང་པདྨ་དཀར་པོ། chos 'byung padma dkar po/(ペマ・カルポ仏教史)/འབྲུག་པའི་ཆོས་འབྱུང་། 'brug pa'i chos 'byung/(ドゥクパ仏教史) IN : G. Tucci (1988) RIN-CHEN-BZAŃ-PO. pp.84-88. Aditya Prakashan, New Delhi.
・རྒྱལ་དབང་ལྔ་པ་ཆེན་མོ་ངག་དབང་བློ་བཟང་རྒྱ་མཚོ། rgyal dbang lnga pa chen mo ngag dbang blo bzang rgya mtsho(偉大なるダライ・ラマ五世ロサン・ギャムツォ) (1643) གངས་ཅན་ཡུལ་གྱི་ས་ལ་སྤྱོད་པའི་མཐོ་རིས་ཀྱི་རྒྱལ་བློན་གཙོ་བོར་བརྗོད་པའི་དེབ་ཐེར་རྫོགས་ལྡན་གཞོན་ནུའི་དགའ་སྟོན་དཔྱད་ཀྱི་རྒྱལ་མོའི་གླུ་དབྱངས་ཞེས་བྱ་བ་བཞུགས་སོ། gangs can yul gyi sa la spyod pa'i mtho ris kyi rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther rdzogs ldan gzhon nu'i dga' ston dpyid kyi rgyal mo'i glu dbyangs zhes bya ba bzhugs so/(有雪国の地に実現した高尚な世界の王・家臣・領主について述べる黄金時代の伝記、若者の喜宴での女王の美歌)
→ 略称 : རྒྱལ་བློན་གཙོ་བོར་བརྗོད་པའི་དེབ་ཐེར། rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther/ (ダライ・ラマ五世年代記/西蔵王臣記)』.

・David Snellgrove, Tadeusz Skorupski (1980) Part III : Biography of Rin-chen bZang-po. IN : THE CULTURAL HERITAGE OF LADAKH 2. pp.83-116. Vilkas Publishing House, Ghaziabad (U.P.).
・川越英真 (1981.12) Rin chen bzań po伝研究. 印度學佛教學研究, vol.30, no.1, pp.477-472.
・川越英真 (1982.春/夏) Rin chen bzań poの生涯とその活動. 文化, vol.49, no.1・2, pp.79-50.
・川越英真 (1983.3) Rin chen bzań poの翻訳リスト. 印度學佛教學研究, vol.31, no.2, pp.844-841.
・Bu-ston, E. Obermiller (tr.) (1986) THE HISTORY OF BUDDHISM IN INDIA AND TIBET (CHOS-hBYUNG). 231pp. Sri Satguru Publications, Delhi.
← 原版 : (1932) Heidelberg.
← チベット語原版 : bu ston chos 'byung/
・Giuseppe Tucci, Nancy Kipp Smith+Thomas J. Pritzker (tr.), Lokesh Chandra (ed.) (1988) RIN-CHEN-BZAŃ-PO AND THE RENNAISSANCE OF BUDDHISM IN TIBET AROUND THE MILLENIUM (INDO-TIBETICA II). 121pp.+map. Aditya Prakashan, New Delhi.
←イタリア語原版:Giuseppe Tucci (1933) RIN C'EN BZAŃ PO E LA RINASCITA DEL BUDDHISMO NEL TIBET INTORNO AL MILLE(INDO-TIBETICA II). R. Accademia d'Italia, Roma.
・O.C.Handa (1994) TABO MONASTERY AND BUDDHISM IN THE TRANS-HIMALAYA : THOUSAND YEARS OF EXISTENCE OF THE TABO CHOS-KHOR. 167pp.+pls. Indus Publishing, New Delhi.
・འཇམ་དབྱངས་རྒྱལ་མཚན། 'jam dbyangs rgyal mtshan(Jamyang Gyaltsan) (1995.1) དགོན་རབས་ཀུན་གསལ་ཉི་སྣང་། dgon rabs kun gsal nyi snang/(THE HISTORIES OF LADAKH MONASTERIES/輝ける陽光なる寺廟誌) 890pp.+pls. All Ladakh Gonpa Society, Leh.
・George Roerich(tr.) (1996) THE BLUE ANNALS. xx+1275pp. Motilal Banarsidass, Delhi.
← 原版 : (1949) Asiatic Society of Bengal, Calcutta.
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・གངས་རི་བ་ཆོས་དབྱིངས་རྡོ་རྗེ། gangs ri ba chos dbyings rdo rje/(カンリワ・チューイン・ドルジェ)(1996.4) གངས་ཅན་བོད་ཀྱི་ནུབ་ངོས་མངའ་རིས་སྐོར་གསུམ་གྱི་སྔོན་བྱུང་ལོ་རྒྱུས་འཆི་མེད་རྔོ་སྒྲ། gangs can bod kyi nub ngos mnga' ris skor gsum gyi sngon byung lo rgyus 'chi med rngo sgra/(有雪のチベット西方ンガリー三域の前近代史、不滅の鼓音/雪域西部阿里廓爾松早期史). 10+285pp. 西藏人民出版社, 拉薩.
・མངའ་རིས་སྲིད་གྲོས་རིག་གནས་ལོ་རྒྱུས་བསྡུས་རུབ་ཨུ་ཡོན་ལྷན་ཁང་། mnga' ris srid gros rig gnas lo rgyus bsdus rub u yon lhan khang/(ンガリー政治文化歴史編纂委員会) (1996.7) བོད་ལྗོངས་སྟོད་མངའ་རིས་སྐོར་གསུམ་ཉེ་རབས་ཆབ་སྲིད་ཀྱི་ལོ་རྒྱུས་དང་དགོན་སྡེ་ཁག་ཞིག་གསོས་གྲུབ་པའི་གནས་ཚུལ། སྤྱི་ཚོགས་གསར་པའི་འཕེལ་ཤུགས་སོགས་རྒྱས་པར་བརྗོད་པའི་འབེལ་གཏམ་རིན་ཆེན་གཏེར་གྱི་ཕྲེང་བ་ཞེས་བྱ་བ་བཞུགས་སོ། bod ljongs stod mnga' ris skor gsum nye rabs chab srid kyi lo rgyus dang dgon sde khag zhig gsos grub pa'i gnas tshul/ spyi tshogs gsar pa'i 'phel shugs sogs rgyas par brjod pa'i 'bel gtam rin chen gter gyi phreng ba zhes bya ba bzhugs so/(チベット域上手ンガリー三域の近代政治史および諸僧院保存の現状、新社会達成などを広範に述べる貴説なる宝連珠/阿里歴史宝典) pls.+636pp. 西藏人民出版社, 拉薩.
・Roberto Vitali (1996) THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG : ACCORDING TO MNGA'.RIS RGYAL.RABS BY GU.GE MKHAN.CHEN NGAG.DBANG GRAGS.PA. xi+642pp. Dharamsala, India.
・Deboarh E. Klimburg-Salter (1997) TABO : A LAMP FOR THE KINGDOM : EARLY INDO-TIBETAN BUDDHIST ART IN THE WESTERN HIMALAYA. 279pp. Skira Editore, Milan.
・Luciano Petech (1997) Western Tibet : Historical Introduction. IN : D.E. Klimburg-Salter. TABO : A LAMP FOR THE KINGDOM. pp.229-255. Skira Editore, Milan.
・Hira Paul Gangnegi (1998.spring) A Critical Note on the Biographies of Lo chen Rin chen bZang po. Tibet Journal, vol.XXIII, no.1, pp.38-48.
・五世達頼喇嘛・著, 劉立千・訳注 (2000) 『西蔵王臣記』. 3+3+2+356pp. 民族出版社, 北京.
← 原版 : (1992) 西蔵人民出版社, 拉薩
← チベット語原版 : rgyal blon gtso bor brjod pa'i deb ther/
・川越英真 (2002.3) Rin chen bzań po伝の伝承の諸相. 東北福祉大学研究紀要, vol.27, pp.193-218.
・Roberto Vitali (2003) A Chronology (bstan rtsis) of Events in the History of mnga' ris skor gsum (Tenth-Fifteenth Centuries). IN : Alex McKay (ed.) (2003) THE HISTORY OF TIBET : VOLUME II THE MEDIEVAL PERIOD : THE DEVELOPMENT OF BUDDHIST PARAMOUNCY. pp.53-89. Routledge Curzon, London.
・Karl Debreczeny (2015.2) Imperial Interest Made Manifest: sGa A gnyan dam pa's Mahākāla Protector Chapel of the Tre shod Mandala Plain. Revue d'Etudes Tibétaines, pp.129-166.
http://himalaya.socanth.cam.ac.uk/collections/journals/ret/pdf/ret_31_10.pdf

関連Website:(追記)

・Wikipedia (English) > Rinchen Zangpo (This page was last modified on 5 January 2016, at 04:33.)
https://en.wikipedia.org/wiki/Rinchen_Zangpo
・THE VERY VENERABLE 9TH KHENCHEN THRANGU RINPOCHE > Teaching & Prayers > Inspirational stories and histories > Lochen Rinchen Sangpo, the Great Translator (as of 2016/02/21)
http://www.rinpoche.com/stories/zangpo.htm 
・The Treasury of Lives > Familes & Vocations > Translators > Alexander Gardner / Rinchen Zangpo b.958 - d.1055 (Published July 2011)
http://www.treasuryoflives.org/biographies/view/Rinchen-Zangpo/10199

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(追記)@2016/2/21

関連Websiteを追加した。

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