2014年3月27日木曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(5) カチェのカチェ

チベット人は全員が仏教徒というわけではありません。わずかですが非仏教徒もいます。というと、すぐに思い浮かぶのはボン教徒ですが、今回はそれよりもさらに少数派イスラム教徒のお話です。

チベット語では、イスラム教徒のことをカチェ(ཁ་ཆེ་ kha che)と呼びます。これは本来カシミール/カシミール人を意味しますが、これが転じてイスラム教徒全般を指す言葉となりました(注1)。チベット人イスラム教徒も同じくカチェと呼ばれます(というか、順序は逆ですね。詳しくは後ほど)。

チベット在住のカチェは、現在3000人とも6000人とも言われています。ラサにはカチェ・ラカン(モスク)もありますね。チベットには、非チベット人イスラム教徒の回族やサラール族(撒拉族)も多いので、一見してチベット人イスラム教徒を見分けることは難しいでしょう。

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1959年以降、多くのチベット人が中国共産党の支配を逃れて国境を越えましたが、その中にはわずかながらカチェたちもいました。中国共産党による民族・宗教弾圧は、仏教・イスラム教の区別はありません。生活のすべてを支配される束縛からの解放、信仰の自由を求める気持ちは仏教徒と同じです。

仏教徒と違ったのは、彼らが落ち着いた先はダラムシャーラーや南インドではなく、カシミール(州都スリナガル郊外)だったこと。

イスラム教徒であるがゆえに、彼らに対してはJ&K州より援助の申し入れがあり、彼ら自身もまたモスレム社会に入ることを好んだようです。

そもそもカチェたちは、ラサにやって来てそのまま住みついたカシミール商人の子孫と云われています。数百年の時を経て、カチェ(カシミールに出自を持つチベット人イスラム教徒)がカチェ(カシミール)に戻ったことになります。

先祖の故地に帰ってきた、というわけで、カチェ側もカシミール側も双方納得の決定で、すんなりと事が進んだのでしょう。

といっても厚遇されたわけではなく、当初は広場の片隅にテントを張って暮らすという厳しい生活だったようです。

スリナガルに定着し始めた当時のカチェの様子を伝える番組がこれ。

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胎動するアジア(2) インド(2)
1962秋 (30分) NHK総合
東南アジア~南アジア諸国の現状を伝える海外取材シリーズ中の1編(インド編の第2回)。印パ国境紛争・領有権問題で揺れるカシミール・スリナガルを取材。
スリナガル郊外に収容されているチベット難民(128家族700人)も紹介。取材班は気づいていないようだが、彼らはみなチベット人イスラム教徒(カチェ)である。カチェの貴重な映像でもある。
参考:
・毎日新聞
・森本勉ほか (1963) 『胎動するアジア』. 日本放送出版協会, 東京.
・NHKアーカイブス
http://www.nhk.or.jp/archives/

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もちろん番組自体を見たことはありませんが、上記書によりその内容を知ることができます。

上記書には、彼らがチベット人イスラム教徒であることは記されていません。取材班は全く気づいていないようです。当時は、チベット文化に関する情報は少ない時代でしたから、仕方ないでしょう。

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現在スリナガルのカチェは、約250家族(千数百人といったところか?)まで増えているようです。

私も、スリナガルでは何人かチベット人を見かけました(純粋なモンゴロイド顔なので、ラダッキとは区別がつきます)。道端に立って物売りをしていましたが、当時は彼らがモスレムとは知りませんでした。

その後、ラダックやダラムシャーラーで一・二度、カチェと話す機会がありました。仏教徒でないせいか、日本人にはあまり興味なさそうでしたね。スリナガルにたくさんカチェが住んでいることをはじめて知ったのも、その時です。

ダライ・ラマ法王について、「宗教こそ違え、チベットの指導者として尊敬している」という話をしていたのが印象的です。これはカチェがよくする話らしく、文献やネット上のあちこちで聞きます。

実は彼らは、難民ステイタスではなくインド国籍を得ているようです。ならば、カシミールのモスレム社会にすっかり同化してもおかしくない(注2)のですが、こういった発言から、やはりチベット人としてのアイデンティティをしっかり保持していることがうかがえます。

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カチェはインド国民なので、ダラムシャーラーのチベット中央政府の管轄外ですが、両者の交流は近年活発化しているよう。2012年7月には、ダライ・ラマ法王がスリナガルのカチェたちのもとを訪れました。

こういった、法王のマイノリティへの配慮はさすがです。仏教全宗派のみならず、ボンポやカチェからも絶大な支持を得ているのも当然でしょう。

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カチェの歴史や現状、ダライ・ラマ法王のスリナガル訪問について、より詳しく知りたい方は、以下へどうぞ。

・Islamic Research Foundation International, Inc. > Article 2473 Atul Sethi/Muslims of Tibet (4 May 2008)
http://www.irfi.org/articles2/articles_2451_2500/Muslims%20of%20Tibet.HTM
・Kashmir Life > Bilal Handoo/Indo-Tibetans of Kashmir (Sunday, July 22nd, 2012)
http://www.kashmirlife.net/indo-tibetans-of-kashmir/
・田上みさお/ヒマラヤに魅せられたひと > スリナガルのアマ・アイーシャ(2011-10-17)
http://gankyi.blog27.fc2.com/blog-entry-60.html

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(注1)
カシミールがイスラム化したのは14世紀以降のこと。そのきっかけとなったのは、王がイスラム教徒となり布教を推進したことです。

カシミール最初のモスレム王は、14世紀初めのリンチャナ(Rinchana)という人物。

「はて?チベットっぽい名前だが?」と思うかもしれませんが、その通り。彼はもともとチベット系の人物で、ラダック方面からやって来た異邦人でした。

当時のカシミールは、中央アジア~アフガニスタンを制圧したモンゴル軍によってたびたび侵略を受け、国/王家(ダムラ朝)とも混乱状態にありました。その中で頭角を現わし、有力者となったのがリンチャナです。ついには弱体化していたダムラ朝の王を廃し王位につきました。

おそらくもともとは仏教徒、つまりヒンドゥ教秩序の中ではカースト外に位置づけられていたのでしょう。リンチャナは王にふさわしい高位カーストを得ようとしますが、バラモン勢力から授与を拒否されます。それで、その代わりにイスラム教に入信してしまいました。イスラム名サダル・ウッディーン(Sadr-ud-Din)。

リンチャナの在位は1320~23年のわずか3年間。その死後はダムラ朝が復活したり、リンチャナ妃だったコタ・ラニ(Kota Rani)が国を支配したりとなかなか安定しません。

リンチャナと並ぶ有力者だったシャーミール(Shahmir)が王位につき、シャーミール・スルタン朝(1339~1561)を開くと、ようやく王権は安定。この時代からカシミールのイスラム化が本格化します。

ちょっと、カシミール史やリンチャナに足を踏み入れてしまいましたが、これらの話題はいずれもう少し詳しくやりましょう。特にリンチャナについては面白い話題がいっぱい。

参考:
・Luciano Petech (1977) KINGDOM OF LADAKH C.950 – 1842 A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・M. L. Kapur (1983) KINGDOM OF KASHMIR. pp.viii+402. Kashmir History Publications, Jammu.
・Jogesh Chunder Dutt (tr.) (2000) THE RAJATARANGINI OF JONARAJA. pp.xv+436. Gyan Publishing House, New Delhi. ← 初出 : (1887~98) J.C.Dutt(自費出版), Calcutta.

(注2)
似たようなポジションにある集団として、「ギャカル・カムパ(རྒྱ་གར་ཁམས་པ་ rgya gar khams pa)」がいます。彼らは、インド独立/中国によるチベット侵略以前にインドにやって来て、そのまま住み着いたチベット人商人の子孫です。もちろんインド国籍。

そのチベット人商人は全部がカムパ(東チベット人)とは限らないのですが、インド/ラダックでは、チベット人をみな「カムパ(ཁམས་པ་ khams pa)」と呼ぶ傾向があります。チベット人の中で、カムパがいかに目立つ存在であるかがわかりますね。それで、在インド・チベット人は、みな「カムパ」という名の集団になってしまったわけです。

ギャカル・カムパは見た目はチベット人ですが、見ていると行動様式はあまりチベット人ぽくない。ほとんどインド人と変わらんなあ、という印象です。今会えるギャカル・カムパたちは、生まれた時からインド国民なんだから当然でしょうね。

チベット語を話せない人も増えています。以前泊めてもらったギャカル・カムパの家では、「チベット語の勉強をしたいから、チベット語会話帳をくれないか?」と乞われたので、喜んで差し上げましたよ。

ただし仏教徒であることは守っている人が多いようで、ギャカル・カムパの集落には、しっかりチョルテンが立っていました。

キナウルで、中国側との国境貿易に従事していた男もギャカル・カムパでしたね。この辺の話もおもしろいんですが、きりがないので今回はこれまで。

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