さて、ヤルツァンポ源頭部に到達した河口慧海師は、そこで「石巌山」という聖地に出会います。『日記』にはこれ以上の記述はなく、わずかにボン教の聖地であることが述べられているだけです。
『旅行記』の方には、もう少し詳しい記述があります。『旅行記(1)』p.176~177より、そのあたりを引用してみましょう。
┌┌┌┌┌ 以下、河口(1978)(1)より ┐┐┐┐┐
【p.176】
(前略)
で一つの大いなる池(*1)の端に着きましてそこで昼食を済ましその池の端で向うの方をずっと眺めて見ますと砂原です。砂の山があっちこっちに見えて居る。これは以前のチェマ・ユンズン川の前にあった砂原より大きい。(段落後略)
第三十回
【p.177】
ポン教 さてその砂原を二里半ばかり行きますとまた草原に着きました。その草原を少し参りますと誠に奇態な石ばかり集って居る原野に山がチョンポリと立って居る(*2)。後にその山の来歴を聞いてみますとそれはポンという教えの神さんが住んで居る山であったそうです。(中略)つまりチベット古代の教えの神々の住んで居る社というようなものは別にない。大抵は石山あるいは雪峰もしくは池、湖というような所になって居る。その山の所を過ぎて少し向うへ参りますと野馬が二疋向うからやって来たです。(以下略)
└└└└└ 以上、河口(1978)(1)より ┘┘┘┘┘
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(*1)
この池は、前述のཏུང་ལུང་མཚོ་ tung lung mtsho。
(*2)
この山が『日記』の石巌山。チベット語名གཤང་རྔ་རི་ gshang rnga riのことらしい。
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ヤルツァンポ/ツォ・マパン流域分水嶺付近は平坦で、砂原・草原が続いていることがわかります。そしてその中にポツンと立つ小山が石巌山=gshang rnga riです。そこはボン教の聖地と言われるものの、寺や社などはなく奇岩の林立する荒れ野原が広がるばかりでした。
ボン教の聖地ということですが、詳しい記述はないのでいったいどういう由来を持つ聖地なのか、ここではさっぱりわかりません。しかし、例の塗り潰しがどうもボン教に関係した内容であろう、とする奥山直司氏の推測はおそらく正しいでしょう。
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慧海師の記述からは、これ以上のことはわかりそうにありません。そこで別の資料から、この聖地を調べてみましょう。
以下、次回。
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