2015年11月10日火曜日

2015年11月1日(日)東京外語大でドキュメンタリー映画「Nowhere to Call Home」を見てきました-その2

『中国蔵族部落』のpp.432-435が、「第三編 四川省藏族部落 第一章 阿壩藏族自治州藏族部落 第二節 紅原県的墨洼部落」です。

墨洼=麦洼(རྨེ་བ་ rme ba メワ)は、前回の地図にも載っていますが、ルマ村のすぐ西の地域で、メ・チュー(རྨེ་ཆུ་ rme chu 麦曲)流域。その中心地もメワと呼ばれます。

ルマがこのメワ地域に入るのか、それともバンユル・チュー流域なのでゾルゲやバンユル(བན་ཡུལ་ ban yul 班佑)の影響下にあるのかちょっとわかりません。

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そのメワの人々ですが、『中国藏族部落』にはこうあります。

メワ部落は、もともとカム北部のダンゴ(བྲག་མགོ brag mgo 章谷=炉霍)からセルタル(གསེར་ཐར་ gser thar 色達)付近の小遊牧部落であった。牧民数約200戸で墨柯河(チベット語表記・位置不明)一帯で遊牧を行っていたため、元の名を墨洼(メワ)と云った(カムのチベット民は麦巴(メパ=smad pa?)と呼んだ)。

メワ部落は近郊部落と折り合いが悪くなり、清末にセルタルに移動。ここで多くの集団を吸収して勢力を拡大。中阿壩の墨顙(メサン?)土官の配下となり、阿木柯河(現・紅原近郊)に移動。

ところがメワ部落は松潘県政府にも内通。松潘県政府が抑えていた現在の麦洼に牧地を得て、今度はそこに落ち着いた。

墨顙土官との関係も依然続いており、黒水土官やラブラン寺勢力に対して共に戦った。

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これを見ると、メワの人々の中には、ダンゴやセルタルといったカムに出自を持つ人々がかなりいることがわかります。

しかし腑に落ちないのは、メワの地にはメ・チュー(rme chu)という川が流れているのですが、メワ(rme ba)とは偶然同じ名前だったのでしょうか?それとも元はsmad paかなんかだったのが、ここに移動してrme baになったのか?どうもすっきりしません。

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さて、ザンタの故郷ルマ(rma)に戻ります。ルマとメワの関係もよくわからないわけですが、メワ経由でセルタルあたりの言語・習俗がルマに伝わっているかもしれません。

セルタルとザチュカ(セルシュー周辺)はまだ離れているわけですが、私は行ったことがないので、両者がどの程度似ているのか、どの程度違いがあるのか全然知りません。

全然まとまらないな、こりゃ・・・。

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ルマ(rma)というのは、黄河のチベット名マ・チュー(རྨ་ཆུ་ rma chu)の「rma」と全く同じなのですが、どういう関係なのでしょう?

rmaというのは、黄河上流域を指す地域名で、そこから派生した地名がたくさんあります。

rmaの地を治める山神であり、山そのものでもあるマチェン・ポムラ(རྨ་ཆེན་སྤོམ་ར་ rma chen spom ra)=アムニェ・マチェン(ཨ་མྱེས་རྨ་ཆེན་ a myes rma chen)。マ・チュー(黄河)。マチュー(རྨ་ཆུ་ rma chu 瑪曲)、マチェン(རྨ་ཆེན་ rma chen 瑪沁)、マトゥー(རྨ་སྟོད་ rma stod 瑪多)という町もあります。

さらに吐蕃時代には旧・吐谷渾領占領地の拠点として、マトム(རྨ་གྲོམ་ rma grom/རྨ་ཁྲོམ་ rma khrom)という基地が置かれていました。

参考 :

・石川巌 (2003.05) 吐蕃帝国のマトム(rMa grom)について. 日本西蔵学会会報, no.49, pp.37-46.

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じゃあこの「rma」って何でしょう?

一般には「怪我・傷」になりますが、地名の由来としてはパッとしない。「美しさ」を意味する場合もあります。「རྨ་བྱ་ rma bya 孔雀」のrmaですね。

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吐蕃時代にはrmaという氏族もいましたが、氏族名だけがちらほら現れるだけで、さほど有力な氏族ではありません。

後のチューチュン類になると、ティソン・デツェン(ཁྲི་སྲོང་ལྡེ་བརྩན་ khri srong lde brtsan)時代初期に仏教に反対して、墓に生き埋めにされてしまったマシャン・トムパキェー(མ་ཞང་ཁྲོམ་པ་སྐྱེས་ ma zhang khrom pa skyes)という人物が出てきます。これはどうも架空の人物らしい。

この人物がrma氏であるのか確証が持てないのですが、名前は先ほどのマトムと似ていて、何やら気になるのですよ。

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私は、このマシャン・トンパキェーには、ロンチェ(བློན་ཆེ་ blon che)にもなったンゲンラム・タクラ・ルーコン(ངན་ལམ་སྟག་སྒྲ་ཀླུ་ཁོང་ ngan lam stag sgra klu khong)の姿が投影されていると考えています。敦煌文献では、タクラ・ルーコンが仏教に反対したとか誅殺された形跡はないのですが。

ショル碑文(ཞོལ་རྡོ་རིང་ zhol rdo ring)によれば、タクラ・ルーコンは主に北東戦線で活躍したようです。おそらくマトムとは関係あったでしょう。

彼は吐蕃軍が長安を占領した際の主将の一人でしたが、なぜか漢籍にその名は現れず、代わって「馬重英」という人物が出てきます。おおむね「タクラ・ルーコン=馬重英」という比定が定説となっていますが、なぜこの漢名で呼ばれるのか謎のままです。気になるのはこの「馬 ma」という姓ですね。

タクラ・ルーコン、馬重英、マトム、マシャン・トムパキェー、こんな風に並べて考えると、なにやら関係が見えてきそうな気がするのですが、決定的証拠がない。今のところは材料を並べるだけで精一杯。まとめきれん。

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『སྦ་བཞེད། sba bzhed バシェー』、『རྒྱལ་རབས་གསལ་བའི་མེ་ལོང་། rgyal rabs gsal ba'i me long 王統明示鏡』、『དེབ་ཐེར་དམར་པོ་གསར་མ། deb ther dmar po sar ma 新紅史』、『མཁས་པའི་དགའ་སཏོན། mkhas pa'i dga' ston 賢者の喜宴』などには両者が現れますが、マシャンしか現れないものも多い。

一般にチューチュン類ではタクラ・ルーコンの影が薄い。実在の人物タクラ・ルーコンの人格を、チューチュン類ではタクラ・ルーコンとマシャンに分けたのではないかと推測していますが、これもまた決定的証拠がない。

まあ今はまだ仮説の前段階といった程度ですが、いずれまた調べます。

なお、この辺の話は、

・林冠群 (2006.9) 瑪祥仲巴桀與恩蘭達札路恭-吐蕃佛教法統建立前的政教紛争. 『唐代吐蕃史論集』(《西藏通史》専題研究叢刊2)所収. pp.316-349. 中国藏学出版社, 北京.
← 原版:(1989) 蒙藏専題研究叢書之四十一, 台北.

を大いに参考にしていますが、上記論文では両者を同一人物と比定しているわけではなく、同時代の人物として併論しているだけです。

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さて、地名rmaの話題から動けなくなって、映画のところに全然戻らないわけですが、この暴走はもう少し続きます(笑)。

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