2017年7月3日月曜日

映画「ラサへの歩き方」 (4) フィクションとノンフィクションの間

まずは簡単な落穂拾いから。

カン・ティセ(カン・リンポチェ)に到達した巡礼団。帰りはどうしたのでしょうか?帰りも五体投地?

おそらく、帰りはバスかトラックに乗って帰ったと思われます。

五体投地の巡礼者は、これまで何度も見たことがありますが、「今帰りなんだ」という人には出くわしたことはありません。巡礼の目的地に着いたら、もう目的達成でしょう。さすがに帰りまではテンションが持たないと思う。

映画副題も「祈りの2400km」で、マルカム~カン・リンポチェ片道の距離だし。

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この作品は、基本的にはフィクションに分類されるのだが、ノンフィクションの部分も多分に有している。複雑な作品なのだ。

登場人物やその家族関係、居住地での職業などのステイタスも全部事実だ。ニマとヤンペルが巡礼に出たいと思っていたのも事実。

しかし、そこに張楊監督が「巡礼の様子を映画にしたい。出演料=巡礼資金を出す」と申し出たことで、ドキュメンタリーではなくなった。

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映画撮影がなくても、ヤンペルとニマは巡礼に出たかもしれない。しかし借金に苦しんでいたジグメ一家は、ギャラがなければ巡礼には出なかったはずだ。

制作者側からの干渉が入っている。だから、たとえ実在の人物が実際に巡礼をやり遂げていたとしても、これはフィクションなのだ。

実在の人物が自分を演じている、と言えようか。こういうのをドキュメンタリー/ノンフィクションとは呼べない。近い概念は「リアリティ・ショー」になるかな。

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しかし、これは最初から「フィクションである」と宣言している作品だ。たとえ真実の部分が多く含まれていようと、そこから事実を読み取る際には、細心の注意が必要となる(一番安全なのは、事実を読みとる対象には一切しないこと)。

例えば、五体投地の際に、若い衆はまるでヘッド・スライディングのように勢いよく滑り込んでいた。いかにもカムパらしいとも言えるが、あれは監督の演出の面が強い。あの勢いでは続かない。

映画では、巡礼の前と途中で、やたらと靴を買っていたのが印象的。靴がすぐに擦り切れるからなんだが、その割に、衣服が擦り切れている様子はあまりない。私が見た五体投地巡礼は、例外なく衣服、特に腕の部分はボロボロだった。

また、映画では、一見すると巡礼中はずっとテント泊であるかのように描かれているが、実際は町に着いたら宿に泊まった、と思う。巡礼中宿に泊まっていけない、という決まりはないのだし、出演者からそういう要望もあったんじゃないかと思う。だが、それはストーリーの邪魔なので一挙に削除。

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今は公開直後であるため、これが基本フィクションであることは周知なのだが、数年後にはそういった事情は忘れ去られる恐れがある。

将来、五体投地による巡礼について語る際に、常にこの映画が引き合いに出されるだろう。その時に、五体投地の実際として、この映画の光景をストレートに事実として扱う論考があれば、それはアウト。どこが事実で、どこが演出なのか、区別つかないのだから。いちいち真偽を考えながら、それをクリアした事実のみが論考の対象となる。

その手続を経ずに、この映画をそのまま民族学・宗教学の素材として使うならば、それは動物を扱ったTV番組を、馬鹿正直に動物生態学の素材として利用するようなもの。

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知っての通り(あれ、知らない?)、野生動物を扱ったドキュメンタリー/ノンフィクションは再構成(わかりやすい言葉で言えば「やらせ」)だらけ。

例えば、ワシが獲物を取るシーン

1. 小動物が地面を歩いている
2. ワシの顔面アップ(獲物を見つけたという設定)
3. ワシが飛び立つアップ(獲物に向かうという設定)
4. ワシが急降下しているように見える映像(獲物に向かっているという設定)
5. なぜかワシが獲物を捉える瞬間はない
6. 地面でワシが獲物をあさっている(獲物は1と同じかどうか、わからない)
7. 遠くから不安げに遠くを眺める、あるいは逃げていく別の動物

手持ちのカメラが1台、あるいは2台しかないと思われる野生動物の撮影で、こんなバラエティに富んだシーンが一度に撮れるはずがない。当然、別々に撮った映像(その多くは、獲物を取る場面とはおそらく無関係)を組み合わせて、このシーンを構成しているのだ。

これを「ワシが獲物を捕まえる際の生態」として、自分の研究に使う動物学者はいないだろう。実際はほとんど関係ない映像ばかりなのは、プロにはすぐにわかるから。

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『ラサへの歩き方』も、そういう使われ方はしてほしくないんだが、なっちゃいそうな気がする。

一つ強調しておきたいのは、今も昔も大量にある、ヤラセ、お芝居、再現が多数混入しながらも「ドキュメンタリー」と称している映像とこの映画ははっきり区別してほしい。

しかし、この映画があたかもドキュメンタリーであるかのように扱われると、それらのヤラセ・ドキュメンタリーとは何も変わらなくなってしまう。

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なお、エンディングでの、ヤンペルのチャトル(བྱ་གཏོར་ bya gtor 鳥葬)が行われたのは、カン・ティセ南西部タルボチェ དར་པོ་ཆེ་ dar po che上手にある本物のドゥルトゥー དུར་ཁྲོད་ dur khrod 鳥葬所。

ヤンペルが(映画上で)亡くなったのは、カン・ティセ北面のディラプク・ゴンパ འདྲི་ར་ཕུག་དགོན་པ་ 'dri ra phug dgon paあたりだから、ヤンペルの葬儀をとり行うに当たり、逆回りでドゥルトゥーまで運んだことになる。

まあいいんだけど、なまじロケ現場に馴染みがあると、気になってしまうのだ。

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なお、Google Mapで見ると、今はそのドゥルトゥーに車道を通すという罰当たりなことをしている。最終的にはドルマ・ラを越えて一周させるらしい。

トホホですね。カン・ティセ周囲にある、無数の聖地がその工事で破壊されるのだ。

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この他、フィクションとノンフィクション、ヤラセ・ドキュメンタリーについて長々と書いたのだが、『ラサへの歩き方』からどんどん離れていくので、また別の機会にします。

それにしても、これだけ色々考えさせてくれる映画はなかなかない。その意味でも素晴らしい映画なのです。

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