2017年6月25日日曜日

映画「ラサへの歩き方」 (3) 中国で公開/カムパってあんな感じなの?/あれ?漢族出てこない

2016年時点では、中国での公開の目処は立っていなかったようだが、2017/06/20に中国でも公開されたようだ。

これは上海での試写会の様子。

・Mtime 時光網 > 朴樹惊喜助陣《崗仁波斉》上海首映 張楊導演坦言創作歴程:做芸術片要走到極致(2017-06-19 16:29:08)
http://news.mtime.com/2017/06/19/1570472.html

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西チベット・カン・ティセ(カン・リンポチェ)の麓でも試写会が行われたという。

・中國新聞網 > 文化 > 即時新聞 > 中新社拉薩・張玉芹・電, 陳海峰・編輯/西藏朝聖題材電影《崗仁波斉》神山下公映(2017年06月20日 23:39)
https://www.chinanews.com/cul/2017/06-20/8256465.shtml

地元民、チベット人巡礼者だけではなく、プランから入境したばかりのインド人巡礼団2017年第1陣も観映したそうな。

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中国語タイトルは「崗仁波斉」だけに、中国の宣材を見てもカン・リンポチェが大きく取り上げられている。しかし映画では、西チベットの場面は最後に15分くらい出てくるだけなので、「え、これだけ?」という感想もかなりあったんではないかな。

こうして考えると、日本でのタイトル「ラサへの歩き方」が、映画の内容を一番的確に反映したタイトルだったような気がする。

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前も書いたけど、中国では、鉄道で割合たやすく行けるようになったラサでは、苦労して行く巡礼の目的地としては、今やアピール度が足りなくなっているのだと思う。「なんで、車や鉄道でラサに行かないの?理解できない」といった感じで。

その点、カン・リンポチェは漢族にとっても、いまだあこがれの地だ。行くのには、金も手間も時間もかかる上に、危険もまだまだ多い。かなり興味を引くのは間違いない。

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しかし、この映画では、ラサやカン・リンポチェが、なぜ道中五体投地で通してまで向かうべき聖地であるのか、の説明がなさすぎると思う。「なぜ五体投地してまで、そこに巡礼に向かうのか?」という疑問に答えてくれないのは物足りないですね。

まあでも、これに触れ始めると、チベットの歴史や宗教(仏教・ボン教)について語らざるを得なくなる。上手く、そして簡潔にストーリーに組み込む形にできるほど、チベットの歴史や宗教は、張楊監督の中でまだ充分消化できていないのだろう。

それよりも、五体投地巡礼に対する素朴な感動とそのインパクトを観客に伝える点をシンプルに強調する方法を選んだわけだ。それでいいと思う。

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巡礼団は、映画通り全員マルカム(སྨར་ཁམས་ smar khams 芒康)・プラ(འཕུར་ལ་ 'phur la 普拉)村の人たち。つまりカムパ(ཁམས་པ་ khams pa)、カムモ(ཁམས་མོ་ khams mo)だ。これはノンフィクション。

カムパやカムモたちと接したことがある人ならば、多少なりとも違和感を持ったはずだ。この映画のカムパ/カムモは、クールすぎるのだ。村でも静かに話をしているし、旅の最中も黙々と五体投地をこなす。

私が持っているカムパのイメージは、もっとにぎやかで熱い連中。

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きわめつけは、トラクターに車を当てられても、「高山病のお客を病院に運ぶところだ」と聞けば、そのまま「もう行け」というだけ。

そんなカムパはいないなー。少なくとも、事故の瞬間に男たちは駆け寄って、ドライバーの胸ぐらくらいつかむはず。まあ、五体投地で疲れていたのかもしれないが・・・それにしてもおとなしすぎる。

カムパというよりツァン(གཙང་ gtsang、シガツェ周辺)の人たちみたいだ(ツァンの人はおとなしい印象→私には)。

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大筋ノンフィクションぽい体裁でも、このへんはフィクションが幅を利かす。つまりこれは、リアルなカムパの姿を描くのではなく、張楊監督が持っているチベット人のイメージなのだ。自分の理想の人物像を、登場人物たちに投影している、とも言えるかもしれない。

ずいぶん聖人君子化されているが、まあ悪いイメージではない。カムパを含むチベット人には、こういう相手を許す精神があるのは確かだが、ちょっと極端すぎるような気はした(カムパだから特に)。

もしかすると、マルカムあたりのカムパは、こういう人たちなのかもしれない(マルカムは行ったことがないし、マルカム・カムパは数人しか接したことがない)。カムに詳しい人はどう感じたかな?

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ところで、壊れて放置してきたはずのトラクター、ラサから巡礼を再開するときには、なぜか復活していた(笑)。修理したのか新しく買ったのか・・・。

ラサでの1~2ヶ月のバイト程度では、トラクターが買えるとは思えない。これは、実は、事故を起こしたドライバーには(映画では見えないところでは)ちゃんと連絡先を聞き、弁償の確約もしっかり取っていた、と思いたい。

そういう、押しの強さと、がっちりしたところがあるのがカムパだ。

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映画では、徹底的に「言葉で感情を表現する」ことを抑制している。登場人物が延々語ったり、絵でも顔のアップはほとんど使わない。それが全編に渡り、異様なクールネスを生んでいる。これはハードボイルドの手法だ。

張楊監督の他の作品って見たことがないのだが、やはりこういう作風なのだろうか?

ちょっと北野武作品にも似ているような気がする。そう、ところどころにユーモアを含めるところも、ちょっとそんな感じだ。

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もう一つ、非常に違和感があったのは、漢族が一切登場しないこと。今や、四川・青海のチベット文化圏から西藏自治区まで、漢族だらけになっている。全く会わないはずはない。まあ、映画の外ではたくさん会っているんだろうけど。

しかし、これが張楊監督の選択なのだ。巡礼中に漢族との軋轢が実はあったのだとしても、五体投地での巡礼というテーマに集中するためには、邪魔なエピソードは省略するのが、この映画のやり方。

世の中には、フィクションといえども、社会問題を組み込んだり、政治問題として取り上げた作品だけを高く評価する人たちがいる。そういう人たちには、この映画は「ファンタジー」に見えるかもしれない。

実際、漢族の植民地となっているチベットで、2400kmの巡礼中、漢族との接触がない、というのはファンタジーだし、意地の悪い見方をすれば、「チベット人と漢族の間の軋轢はまるで存在しないかのように、現実を隠蔽している。これは中国共産党と同じ手口だ」といった論調で批判することも可能だ。

しかし、一般人には馴染みのない「五体投地での巡礼の姿」をまず知らせたい、そして一緒に感動してほしい、という思いの方が圧倒的に強いのだ、この映画は。

それに素直に乗っていいと思う。

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もう少し書きたいこともあるのでもう1回。それにしても深い映画だなあ、いろいろ考えさせてくれる。

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