Chaurasi寺院群のNandi(नन्दी)、Ganesh(गणेश)ときたら、最大の見どころNarasinha(नरसिंह)像を紹介しないわけにはいかないですね。
すごい迫力。威厳も躍動感も圧倒的です。カシミール様式像の最高傑作と言っていいでしょう。
ネット上には布を取った全身像もありますから、探してみてください。さらに迫力アップです。
これらの像には銘文がちゃんと残っていて、寄進した王Meruvarman(Bharmaur/Chamba王初代)、作者Guggaの名までわかっています。だから700年頃の像だと言えるわけです。
stod phyogsとは、チベット語で「上手方面」の意味。チベットを東西に流れる大河ヤルツァンポの上手側=西部チベット、そしてさらに西の方 にあたります。
2015年3月31日火曜日
2015年3月24日火曜日
ヒマーチャル小出し劇場(25) Bharmaur ChaurasiのGanesh像
需要があるようなので、Chamba(चम्बा)県Bharmaur(भरमौर)にあるChaurasi(चौरासी)寺院群の一角に祀られているGanesh(गणेश)像を。
巻いた鼻の造形など見事なものです。実は下半身は腐ってなくなっていますが。
700年頃のものとされています。まさか!?と思うかもしれませんが、どうも本当らしいんですよ。この肉感的な造形は、当時流行のカシミール様式そのものですし。
Chaurasi寺院群については、
2014年3月4日火曜日 ヒマーチャル小出し劇場(8) のんびり寺院群チョウラースィー
をどうぞ。
巻いた鼻の造形など見事なものです。実は下半身は腐ってなくなっていますが。
700年頃のものとされています。まさか!?と思うかもしれませんが、どうも本当らしいんですよ。この肉感的な造形は、当時流行のカシミール様式そのものですし。
Chaurasi寺院群については、
2014年3月4日火曜日 ヒマーチャル小出し劇場(8) のんびり寺院群チョウラースィー
をどうぞ。
2015年3月18日水曜日
ヒマーチャル小出し劇場(24) インド版ラテン・ゴンパ
Manali(मनाली)からVashisht(वशिष्ठ)へ向かう道すがら、崖下にそびえる細長い建物。

黄色い屋根からしてチベット仏教僧院であることはわかりますが、わざわざ訪れる人もいないようです。で、行ってみると、これが驚くことにラテン・ゴンパ(རྭ་སྒྲེང་དགོན་པ་ rwa sgreng dgon pa 熱振寺)のインド版だったんですね。ゲルクパ。
ラテン・ゴンパは、ラサ北方にあるカダムパ~ゲルクパの古刹。アティシャ(ཇོ་བོ་རྗེ་པལ་ལྡན་ཨ་ཏི་ཤ jo bo rje pal ldan a ti sha)の直弟子ドムトンパ(འབྲོམ་སྟོན་པ་རྒྱལ་བའི་འབྱུང་གནས་ 'brom ston pa rgyal ba'i 'byung gnas)が1057年に建てた僧院です。
著名僧院のインド版にしては慎ましやかですが、静かに修行するには悪くない立地と思います。
僧は小坊主さんを入れても数人。新しいものですが、壁画の出来もいいので、一度訪れて見る価値のある寺です。
黄色い屋根からしてチベット仏教僧院であることはわかりますが、わざわざ訪れる人もいないようです。で、行ってみると、これが驚くことにラテン・ゴンパ(རྭ་སྒྲེང་དགོན་པ་ rwa sgreng dgon pa 熱振寺)のインド版だったんですね。ゲルクパ。
ラテン・ゴンパは、ラサ北方にあるカダムパ~ゲルクパの古刹。アティシャ(ཇོ་བོ་རྗེ་པལ་ལྡན་ཨ་ཏི་ཤ jo bo rje pal ldan a ti sha)の直弟子ドムトンパ(འབྲོམ་སྟོན་པ་རྒྱལ་བའི་འབྱུང་གནས་ 'brom ston pa rgyal ba'i 'byung gnas)が1057年に建てた僧院です。
著名僧院のインド版にしては慎ましやかですが、静かに修行するには悪くない立地と思います。
僧は小坊主さんを入れても数人。新しいものですが、壁画の出来もいいので、一度訪れて見る価値のある寺です。
2015年3月13日金曜日
ヒマーチャル小出し劇場(23) Nurpur Kilaと近代前夜のヒマーチャル
Nurpur(नूरपुर 「ヌールプル」と前だけのびます)はKangra県の最西端。Nurpur王国の王都でした。
お隣りはもうPunjab州Pathankot。というより、Nurpur王国の本拠地は長らくPathankotだったんですが(当時はPathania王国と呼んだ方がいいでしょう)。1600年頃に現Nurpurに遷都。ご覧の通り堅固な城塞Nurpur Kila(नूरपुर किला)を築きます。
といっても、まだNurupur王国・城にはなりません。というのは、ここがNurpurという地名になったのは、1622年にムガル皇帝Jahangirと皇后Nur Jahanがこの城を訪れてからなので。これを記念して、地名はDhameriからNurpurと改名され、国名もNurpur(王国)と呼ばれるようになりました
当時は、お隣りのKangra王国などと共に、ヒマーチャル一帯はムガル帝国の属国だったんですね。
紀元前から北西インドの大勢力だったKangra王国(注)は最後までムガル帝国に抵抗したため、こっぴどくやられ、降伏時には滅亡寸前に追い込まれます(1620年)。先にムガルに降伏していたNurpur王国は、Kangra王国領の大半を併合。17世紀~18世紀前半まで、このNurpur王国がヒマーチャル最大の勢力でした。
18世紀中頃ムガル帝国が衰え、その隙に乗じてKangra王国が復興。逆に、ムガルの威光を背にしていたNurpur王国は衰えていきます。
そしてKangra王国のヒマーチャル全域征服大作戦が始まります。やがてその争いにゴルカ朝ネパール、スィク教国が介入。ヒマーチャルを舞台とした三国志の始まりです(19世紀初頭)。
このヒマーチャル三国志は、最終的にイギリス東インド会社の介入を招きます。Kangra王国は三国志メンバーから脱落し、スィク教国の属国に。それどころかヒマーチャルの大半がスィク教国領になってしまいました。
Kangra王国と入れ替わりにイギリス東インド会社が登場すると、この新三国志は「北インド三国志」にまで拡大します。
東インド会社が第一次スィク戦争に勝利すると(1846年)、スィク教国領となっていたヒマーチャル全域は、イギリス東インド会社(まもなく英領インド帝国)直轄領となります。これが近代ヒマーチャルの始まりです。
安易に他国の軍事力に頼った結果、最後は国を失う、というよくあるパターンの例ですね。もっとも、それまでに約百年かかっていますから、当事者にはその歴史の流れは見えないものです。
(注)
Kangra王国の前身はTrigarta王国。『マハーバーラタ』や『プトレマイオス地理学』などにも名前が現れる大国です。現Punjab州Jhalandharを王都とする仏教王国で、玄奘『大唐西域記』や慧超『往五天竺国伝』などにも詳しい報告があります(闍爛達羅/闍蘭達羅と表記)。
11世紀、現アフガニスタンのガズナ朝が北インドに侵攻。Trigarta王国はJhalandharをはじめとする平原部の領土を失い、現Kangraに遷都(1070年、以後Kangra王国と呼ばれる)。その王都が有名なNagarkotです。
Kangra王家はKatoch朝と呼ばれ、古代から近代まで実に486代にも渡る系譜が残っているウルトラ名家でした。
お隣りはもうPunjab州Pathankot。というより、Nurpur王国の本拠地は長らくPathankotだったんですが(当時はPathania王国と呼んだ方がいいでしょう)。1600年頃に現Nurpurに遷都。ご覧の通り堅固な城塞Nurpur Kila(नूरपुर किला)を築きます。
といっても、まだNurupur王国・城にはなりません。というのは、ここがNurpurという地名になったのは、1622年にムガル皇帝Jahangirと皇后Nur Jahanがこの城を訪れてからなので。これを記念して、地名はDhameriからNurpurと改名され、国名もNurpur(王国)と呼ばれるようになりました
当時は、お隣りのKangra王国などと共に、ヒマーチャル一帯はムガル帝国の属国だったんですね。
紀元前から北西インドの大勢力だったKangra王国(注)は最後までムガル帝国に抵抗したため、こっぴどくやられ、降伏時には滅亡寸前に追い込まれます(1620年)。先にムガルに降伏していたNurpur王国は、Kangra王国領の大半を併合。17世紀~18世紀前半まで、このNurpur王国がヒマーチャル最大の勢力でした。
18世紀中頃ムガル帝国が衰え、その隙に乗じてKangra王国が復興。逆に、ムガルの威光を背にしていたNurpur王国は衰えていきます。
そしてKangra王国のヒマーチャル全域征服大作戦が始まります。やがてその争いにゴルカ朝ネパール、スィク教国が介入。ヒマーチャルを舞台とした三国志の始まりです(19世紀初頭)。
このヒマーチャル三国志は、最終的にイギリス東インド会社の介入を招きます。Kangra王国は三国志メンバーから脱落し、スィク教国の属国に。それどころかヒマーチャルの大半がスィク教国領になってしまいました。
Kangra王国と入れ替わりにイギリス東インド会社が登場すると、この新三国志は「北インド三国志」にまで拡大します。
東インド会社が第一次スィク戦争に勝利すると(1846年)、スィク教国領となっていたヒマーチャル全域は、イギリス東インド会社(まもなく英領インド帝国)直轄領となります。これが近代ヒマーチャルの始まりです。
安易に他国の軍事力に頼った結果、最後は国を失う、というよくあるパターンの例ですね。もっとも、それまでに約百年かかっていますから、当事者にはその歴史の流れは見えないものです。
(注)
Kangra王国の前身はTrigarta王国。『マハーバーラタ』や『プトレマイオス地理学』などにも名前が現れる大国です。現Punjab州Jhalandharを王都とする仏教王国で、玄奘『大唐西域記』や慧超『往五天竺国伝』などにも詳しい報告があります(闍爛達羅/闍蘭達羅と表記)。
11世紀、現アフガニスタンのガズナ朝が北インドに侵攻。Trigarta王国はJhalandharをはじめとする平原部の領土を失い、現Kangraに遷都(1070年、以後Kangra王国と呼ばれる)。その王都が有名なNagarkotです。
Kangra王家はKatoch朝と呼ばれ、古代から近代まで実に486代にも渡る系譜が残っているウルトラ名家でした。
2015年3月7日土曜日
ヒマーチャル小出し劇場(22) ティロパの聖地Trilokpur
Kangra県西部Trilokpur(त्रिलोकपुर)。Trilokinath(त्रिलोकीनाथ)という洞窟が、ヒンドゥ教、仏教の聖地として崇められています。
これは石灰岩体内にできた鍾乳洞です。鍾乳石や石筍をシヴァ・リンガと見立てて、シヴァの聖地としたわけ。
一方、仏教徒にとっては、カギュパ祖師ティロパ(ཏི་ལོ་པ་ ti lo pa)が瞑想した場所、ということになっています。近くにはカルマ・カギュパの尼寺もできています。
Dharamshalaより西に行く旅行者は少ないようですが、Pathankotへの街道沿いにありますから、ここでちょっと途中下車してもいいですね。
これは石灰岩体内にできた鍾乳洞です。鍾乳石や石筍をシヴァ・リンガと見立てて、シヴァの聖地としたわけ。
一方、仏教徒にとっては、カギュパ祖師ティロパ(ཏི་ལོ་པ་ ti lo pa)が瞑想した場所、ということになっています。近くにはカルマ・カギュパの尼寺もできています。
Dharamshalaより西に行く旅行者は少ないようですが、Pathankotへの街道沿いにありますから、ここでちょっと途中下車してもいいですね。
2015年3月1日日曜日
ヒマーチャル小出し劇場(21) 国境の村Tashigang Rong
ランチェン・ツァンポ(གླང་ཆེན་གཙང་པོ་ glang chen gtsang po サトレジ河)沿い、インド側最東端の村。ここもタシガン。

タシガンという地名はなぜか国境近くに多く、4つほど確認できます。区別するため、ここはタシガン・ロン(བཀྲ་ཤིས་སྒང་རོང་ bkra shis sgang rong)と呼ばれます。
新旧二つのゴンパが建っていますが、いろいろ凄いです。何が凄いかはぜひ一度行ってみてください。
この先国境側には、さらにソマン・ゴンパ(སོ་མང་དགོན་པ་ so mang dgon pa)という名刹があるのですが、途中にインド・チベット国境警備隊(Indo-Tibetan Border Police、ITBP)がいるのであきらめました。
サトレジ河対岸にある、これも国境の村ナムギャ(རྣམ་རྒྱལ་ rnam rgyal)で、以前とっつかまってますから(笑)。
タシガンという地名はなぜか国境近くに多く、4つほど確認できます。区別するため、ここはタシガン・ロン(བཀྲ་ཤིས་སྒང་རོང་ bkra shis sgang rong)と呼ばれます。
新旧二つのゴンパが建っていますが、いろいろ凄いです。何が凄いかはぜひ一度行ってみてください。
この先国境側には、さらにソマン・ゴンパ(སོ་མང་དགོན་པ་ so mang dgon pa)という名刹があるのですが、途中にインド・チベット国境警備隊(Indo-Tibetan Border Police、ITBP)がいるのであきらめました。
サトレジ河対岸にある、これも国境の村ナムギャ(རྣམ་རྒྱལ་ rnam rgyal)で、以前とっつかまってますから(笑)。
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