2015年3月13日金曜日

ヒマーチャル小出し劇場(23) Nurpur Kilaと近代前夜のヒマーチャル

Nurpur(नूरपुर 「ヌールプル」と前だけのびます)はKangra県の最西端。Nurpur王国の王都でした。

お隣りはもうPunjab州Pathankot。というより、Nurpur王国の本拠地は長らくPathankotだったんですが(当時はPathania王国と呼んだ方がいいでしょう)。1600年頃に現Nurpurに遷都。ご覧の通り堅固な城塞Nurpur Kila(नूरपुर किला)を築きます。
















といっても、まだNurupur王国・城にはなりません。というのは、ここがNurpurという地名になったのは、1622年にムガル皇帝Jahangirと皇后Nur Jahanがこの城を訪れてからなので。これを記念して、地名はDhameriからNurpurと改名され、国名もNurpur(王国)と呼ばれるようになりました

当時は、お隣りのKangra王国などと共に、ヒマーチャル一帯はムガル帝国の属国だったんですね。

紀元前から北西インドの大勢力だったKangra王国(注)は最後までムガル帝国に抵抗したため、こっぴどくやられ、降伏時には滅亡寸前に追い込まれます(1620年)。先にムガルに降伏していたNurpur王国は、Kangra王国領の大半を併合。17世紀~18世紀前半まで、このNurpur王国がヒマーチャル最大の勢力でした。

18世紀中頃ムガル帝国が衰え、その隙に乗じてKangra王国が復興。逆に、ムガルの威光を背にしていたNurpur王国は衰えていきます。

そしてKangra王国のヒマーチャル全域征服大作戦が始まります。やがてその争いにゴルカ朝ネパール、スィク教国が介入。ヒマーチャルを舞台とした三国志の始まりです(19世紀初頭)。

このヒマーチャル三国志は、最終的にイギリス東インド会社の介入を招きます。Kangra王国は三国志メンバーから脱落し、スィク教国の属国に。それどころかヒマーチャルの大半がスィク教国領になってしまいました。

Kangra王国と入れ替わりにイギリス東インド会社が登場すると、この新三国志は「北インド三国志」にまで拡大します。

東インド会社が第一次スィク戦争に勝利すると(1846年)、スィク教国領となっていたヒマーチャル全域は、イギリス東インド会社(まもなく英領インド帝国)直轄領となります。これが近代ヒマーチャルの始まりです。

安易に他国の軍事力に頼った結果、最後は国を失う、というよくあるパターンの例ですね。もっとも、それまでに約百年かかっていますから、当事者にはその歴史の流れは見えないものです。

(注)

Kangra王国の前身はTrigarta王国。『マハーバーラタ』や『プトレマイオス地理学』などにも名前が現れる大国です。現Punjab州Jhalandharを王都とする仏教王国で、玄奘『大唐西域記』や慧超『往五天竺国伝』などにも詳しい報告があります(闍爛達羅/闍蘭達羅と表記)。

11世紀、現アフガニスタンのガズナ朝が北インドに侵攻。Trigarta王国はJhalandharをはじめとする平原部の領土を失い、現Kangraに遷都(1070年、以後Kangra王国と呼ばれる)。その王都が有名なNagarkotです。

Kangra王家はKatoch朝と呼ばれ、古代から近代まで実に486代にも渡る系譜が残っているウルトラ名家でした。

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