2014年6月6日金曜日

チベット・ヒマラヤTV考古学(12) マナスル登山関連TV番組一覧-その2

マナスル登頂の余韻は翌年以降も覚めやらず、数々の回顧番組が作られます。昭和史・戦後史回顧番組でも必ず取り上げられるアイテムとなり、マナスル登頂は今や「歴史」になった、と言えるでしょう。

一方登山家たちは、次の目標として同じマナスル山群のヒマルチュリやピーク29、ジュガール・ヒマール山群を目指し、これらの軌跡も記録映像としてたくさん残っています(今回は省略)。

そして続く目標として、いよいよエヴェレスト(サガルマータ/チョモランマ)が視界に入ってくるのですが、1965~69年のネパール・ヒマラヤ登山全面禁止を受けてその試みは頓挫。日本隊によるエヴェレスト初登頂は1970年まで待たなくてはなりませんでした。

エヴェレスト登山関連番組もいずれまとめてみましょうかね。

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【ラジオ】 マナスル登頂一周年記念随想特集(全6回)  
1957春(20分?×6) ニッポン放送
(1)松方三郎(日本山岳会会長)/マナスルまで
(2)竹節作太(毎日新聞運動部長)/ヒマラヤの風物詩
(3)三田幸夫(第一次マナスル登山隊隊長)/ヒマラヤの山々
(4)加藤喜一郎(マナスル登頂隊員)/マナスルという山
(5)木原均(京都大学理学部教授)/科学的の成果
(6)槇有恒(第三次マナスル登山隊隊長)/マナスル登頂の意義
参考:
・毎日新聞

ヒマラヤのお話  
1958夏 KRテレビ
出演:依田孝喜(毎日新聞社写真部、3本のマナスル登山記録映画のカメラマン)、加藤喜一郎(マナスル登頂者の一人)。
参考:
・毎日新聞

ヒマラヤ物語  
1960初(45分) 日本テレビ
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊長)、三田幸夫(第一次マナスル登山隊長)。
フィルムと座談でマナスルを中心にヒマラヤ登山を語り合う。
参考:
・読売新聞
・毎日新聞
・岩下莞爾 (1989) 『テレビがチョモランマに登った』. 日本テレビ.

びっくりスコープ 世界の屋根ヒマラヤ  
1960夏(25分) NHK総合
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊長)、林寿郎(雪男学術探検隊)、高島春雄、中沢公正。
参考:
・毎日新聞

映画 マナスルに立つ  
1961初(90分) NETテレビ
1956年公開の第三次マナスル登山隊の初登頂記録映画を初テレビ放映。
参考:
・毎日新聞

特別番組 ガルツェンをしのんで  
1961秋(30分) NETテレビ/毎日放送テレビ
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊長)、松田雄一(マナスル/ヒマルチュリ登山隊員)、杉浦耀子(デオ・ティバ婦人登山隊員)、広谷光一郎(ランタン・リルン登山隊員)。
ギャルツェン・ノルブ(རྒྱལ་མཚན་ནོར་བུ་ rgyal mtshan nor bu)は、日本人ヒマラヤ登山隊で常に活躍してきたシェルパ・サーダー。1956年のマナスル初登頂者の一人でもある。1961年春のランタン・リルン登山隊(大阪市立大)において、5600mのC3地点で雪崩に遭い日本人隊員2名と共に死亡。
彼の妻と四人の遺児の経済的困窮を救おう、とガルツェン遺児援助資金募集委員会(委員長:槇有恒)が設立され、テレビ局の賛同を得て追悼番組が放映された。CM収益と出演料は寄付され、一般募金の呼びかけも行ったようだ。
参考:
・毎日新聞
・大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会 (1962) 『雪線別冊 大阪市立大学ランタンリルン遠征報告書 1961 Premonsoon』. 大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会.

婦人ニュース 父ガルツェンをしのぶ  
1964夏(15分) TBSテレビ
出演:ニマ・ノルブ。
日本のヒマラヤ登山隊で活躍し1961年に遭難死したシェルパ・サーダーのギャルツェン・ノルブの娘さんが来日し、父の想い出を語る。
参考:
・毎日新聞
・大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会 (1962) 『雪線別冊 大阪市立大学ランタンリルン遠征報告書 1961 Premonsoon』. 大阪市立大学ヒマラヤ遠征委員会.

教養特集 日本回顧録 アイガーからマナスルまで  
1963夏(60分) NHK教育
出演:槇有恒(第三次マナスル登山隊隊長、1894~1989)、聞き手:串田孫一(東京外語大学教授)、ゲスト:三田幸夫(日本山岳会副会長)、今西寿雄(第三次マナスル登山隊員)、藤山愛一郎。
日本登山界の進歩と共に歩んできた槇氏の輝かしい半生をたどる。槇氏は1921(大正10)年にアルプス最難関コースといわれていたアイガー東山稜登攀に成功し一躍世界の登山界に名を知られるようになる。その後1925(大正14)年、日本初の大規模海外遠征となったカナディアン・ロッキーのアルバータ峰(3619m)初登頂にも成功。そして1956(昭和31)年には第三次マナスル登山隊長として、見事日本人初の8000m級高峰登頂へと導いた。
参考:
・毎日新聞
・槇有恒 (1968) 『わたしの山旅』. 岩波新書.

教養セミナー 証言・現代史 西堀栄三郎 "探検精神半世紀"(全2回)
1984春(45分×2) NHK教育
第1回南極観測越冬隊長を務め、マナスル登山隊派遣にも尽力した探検家・西堀栄三郎(当時81歳、1903~1989)の足跡を本人の証言とともに振り返る企画。
(1)マナスルから南極へ
最終的に日本山岳会が主催したマナスル登山隊だが、その発端を作り、実現へ向けて尽力したのは京都大学山岳部OBの西堀と今西錦二であった。
(2)品質管理から原子力へ
こちらは本業である技術研究者としての足跡を追ったもの。
参考:
・朝日新聞
・西堀栄三郎・著、唐津一ほか・編 (1991) 『西堀栄三郎選集 人生は探検なり 西堀榮三郎自伝』. 悠々社.

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