2回にわたったザンスカール語のお話の中に入りきらなかったのがこの話題。
ザンスカールの南西側はヒマラヤ山脈により区切られ、これがラダック地方とジャンムー地方/カシミール地方との境界にもなっており、一部はヒマーチャル・プラデシュ州との境界をも形成しています。
このヒマラヤ山脈を南西に越えて、ジャンムー側やヒマーチャル・プラデシュ州側にザンスカーリが越境して来て住んでいることはほとんど知られていません。
今のところ私が知っている場所(一部未確認あり)は次の通り(注1)。
「越境ザンスカーリ」分布域
J&K州ジャンムー(Jammu)地方ドダ(Doda)県パダル(Padar/Paddar/dpal dar/pa ldar)・マツェル(Matsel/Machel)周辺=ブト・ナーラー(Bhut Nala)流域
・ガンダル・バトリー(Gandhar Bhatori)=サンサリー・ナーラー(Sansari Nala)流域
ヒマーチャル・プラデシュ州チャンバー(Chamba)県パーンギー(Pangi)郡・スラール・バトリー(Sural Bhatori)=ルージェイ・ナーラー(Lujai Nala)最上流域(注2)
・フダン・バトリー(Hudan Bhatori)=マハル・ナーラー(Mahal Nala)最上流域
・パルマル・バトリー(Parmar Bhatori)=パルマル・クマル・ナーラー(Parmar Kumar Nala)最上流域
・トゥアン(Tuan/Twan)周辺=セイチュー・ナーラー(Saichu Nala)最上流域
・チャサク・バトリー(Chasak Bhatori)=チャサク・ナーラー(Chasak Nala)最上流域
ヒマーチャル・プラデシュ州ラーホール&スピティ(Lahaul & Spiti)県ラーホール地区・ギェレ(Gyere/gye re/Patnam)=ミヤール・ナーラー(Miyar Nala)下流域
・オタン(Othang/'o thang)=ジャールマー(Jahlma)の山手
いずれも各地域のヒマラヤ側高山部にあたり、ザンスカールと隣接した場所です。彼らはザンスカールから移住して来た、と伝えられています。
インド側からはチベット系民族を指す一般名詞「ボド(Bod/Bhot)」と呼ばれていますが、その他に彼らを総称する適当な用語はありません。ここでは一応「越境ザンスカーリ」と呼びますが、私が発明した用語ですから、一般には通用しないのでご注意を。
移住の時期やその経緯ははっきりしませんが、それほど古い時代ではないようです。Weare(1997)には「(パダルのチベット系住民は)ラダックの農民が六世代程前に移住して来たもの」とあり、一世代25年とすると約150年前=19世紀半ばとなります。
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私が自分で訪れた場所はパーンギーのスラール・バトリーとラーホールのオタンしかないのですが、どちらでもチベット語が通じました。彼らが話す言葉がザンスカール語なのかどうか、実は断言できるほど詳しく調べてはいないのですが、少なくとも響きはラダック語的ではありませんね。ということで、とりあえずザンスカール語圏内に入れておくことに無理はない、と考えています。
スラール・バトリーの人々
お馴染みの西・方言論文(注3)ではどうなっているでしょうか。1987年版の2論文ではラダック方言についてはKoshalの区分をそのまま採用し「越境ザンスカーリ」の言語については触れていませんが、西(2000)では新たにミヤール・ナーラーの言語を(?)つきでラダック方言に加えています。
┌┌┌┌┌ 以下、西(2000)より ┐┐┐┐┐
I ) 西部古方言
1)~2) ・・・(省略)・・・
3) ラダック方言
a)~e) ・・・(省略)・・・
(?) f) パトナム(Patnam ; Patnam Bhoti)方言
ヒマーチャル・プラデシュ州(Himachal Pradesh)のラフール・スピティ地方(Lahul - Spiti District)を貫通するチェナブ(Chenab)川と、ウダイプル(Udaipur)で合流するミャル・ナラ(Myar Nalah=Miyad Nala)川を、30キロほど遡った地域の8か村。
└└└└└ 以上、西(2000)より ┘┘┘┘┘
独自に調査を行った結果での判断ではないようです。では出典は何かというとそれも不明ですが、詳しい調査報告が存在しているような雰囲気でもありません(注4)。
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彼らはもちろんチベット仏教徒です。宗派はザンスカール~ラーホールで有力なドゥクパが優勢。ドゥクパの中でも、ブータン→ラダック・スタクナ寺→ザンスカール・バルダン寺の末寺に当たります。
例外はオタンとミヤール・ナーラー流域。オタン・ゴンパはゲルクパ(ザンスカール・カルシャ寺の末寺)です(注5)。またミヤール・ナーラー流域(ギェレ)はニンマパ信仰が強い場所(注6)。
オタンの老夫婦(アビ=おばあさんの服装はラーホールというよりラダック的)
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ザンスカールからミヤール・ナーラーやパダルへ抜けるルートは、峠の前後は延々氷河が続く厳しいルートで、現在トレッキング・ルートとしてはあまり人気はありません。しかしラダックやザンスカールの史書には、パダルやチェナブ川下流方面のキシュトワル(Kishtwar)の話が何度か現れますから、ウマシ・ラ(Umasi La/u ma sa'i la)経由である程度交流があったのは間違いないようです。
ザンスカールからインド方面へ抜けるルートで最もポピュラーなのは今も昔もカルギャク川~ラーホール・ダルチャのルートです。このダルチャを含むラーホール東部ではトゥー(Stod)語というチベット語方言が話されています。これについては次回以降に説明しますが、ザンスカール語にかなり近いチベット語方言です。
ラーホール東部は17世紀末まではラダック領でしたから、ラダック~ザンスカールからの移住者も多かったはずで、また原住民もラダック~ザンスカール文化の影響を強く受け、両者は融合してしまったと思われます。
では「越境ザンスカーリ」が話す言葉とそのトゥー語は区別できるのか?私には答えられるだけの知識はありません(注7)。
ダルチャ(Darcha/dar rtse)からミヤール・ナーラー河口のウダイプル(Udaipur)へは街道沿いをたどるとかなり遠いのですが、ジャンカル・ナーラー(Jankar Nala)を逆上り西へ峠を越えるともうそこはミヤール・ナーラーです。もしかするとミヤール・ナーラーの住民は、ザンスカールから直接ミヤール・ナーラーに下って来た、というよりも一旦ラーホール東部に出てその後ミヤール・ナーラーに移った人々の比率が高い可能性もあります。とすれば、ますます両者の言葉を区別するのは難しいかもしれません。
またミヤール・ナーラー最上部で峠を西へ越えるとダルラン・ナーラー。これを西へ下るとパダルです。このルートの存在も無視できません。
とまあ、いろいろ仮説、にもほど遠い妄想を述べましたが、ラーホール自体、民族学・言語学の研究対象としてはいまだマイナーな上に、「越境ザンスカーリ」に至っては存在が知られていないに等しい状態ですから、現状では何もわかっていないも同然です。今後の研究対象としてはなかなかおもしろい地域だと思いますが、誰かやる人はいないものでしょうか。
スラール・バトリーやオタンを訪れた時の話は、いずれまた稿を改めて詳しくしようと思います。先にトゥー語、スピティ語、ニャム語を片づけなくては・・・。
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(注1)
ブト・ナーラーの支流ダルラン・ナーラー(Dharlang Nala)流域チョモ(Chomo)についてはあまりわからないが、地名はチベット語であり、パダルパの集落もしくは牧民の夏期居住地があるらしい。これ以上不明。
ブト・ナーラーとサンサリー・ナーラーの間には、Kaban NalaにBodosa、Ungiar NalaにZaunsarといったチベット系を匂わせる地名もあるが、情報がない。
ラーホール・ティロト・ナーラー(Thirot Nala)のチョカン(Chokhang)は、明らかにチベット語地名であり、ここももともと「越境ザンスカーリ」の土地なのかもしれない。しかしこの地名以外ほとんど情報がなく、ここを訪れた人の報告を見てもチベット系文化を伝えるものは今のところ見あたらない。チベット系住民も今はすっかりラーホール化(ヒンドゥ教徒化)しているのかもしれない。ティロト・ナーラー奥地にはニール・カンタというヒンドゥ教シヴァ神の聖地がある。
(注2)
スラール・バトリーは地図上ではKhangsarと記されていることが多い。
(注3)
西・方言論文の発展については 2009年3月6日 『チベットの言語と文化』 総目次 の巻 の(注4)を参照のこと。
(注4)
パトナム語/方言については、実は西(2000)以前に、筋違いの論文ではあるが、
・西義郎 (1990) ヒマラヤ諸語の分布と分類(中). 国立民族学博物館研究報告, vol.15, no.1, pp.265-335.
で補足的に言及されており、「この方言の資料は全く刊行されていない」とある。またパトナム語/方言を「暫定的にラダク方言に分類しておく」という見解も本論文が初出。
(注5)
オタン・ゴンパはかつてスピティのゲルクパに管理されていたが、現地住民とトラブルがありスピティの僧は排斥され、現在はザンスカールのゲルクパ(カルシャ寺)が管理下に置いている(Tobdan 1984)。ヒンドゥ教仏教混交の古刹ティロキナート(Triloknath)寺も現在はザンスカーリのゲルクパ僧が管理。
ラーホールにはオタンの他にもゲルクパの寺が、チャンドラー川流域のチョコル(Chokhor/chos 'khor)などにある。こちらも同様の事情で現在はザンスカールのゲルクパが管理している(Tobdan 1984)。
というわけで、オタンの住民には、ザンスカーリの他にスピティからの移住者の血も混じっているのかもしれない。この辺は全く調査されたことがない。
(注6)
ミヤール・ナーラー流域(ギェレ)には、20世紀中頃アムド・ゴロク出身のニンマパ・ラマ、トゥルシュク・リンパ(brtul zhugs gling pa)[1916-63]が盛んに布教を行ったため、今でもニンマパ信仰が盛ん。詳しくは棚瀬(2001)の「第8章「隠された国」を求めて-テルトン・トゥルシュク・リンパの冒険」を参照されたし。
(注7)
・Ethnologue > Web version > Country index > Asia > India > Stod Bhoti
http://www.ethnologue.com/14/show_language.asp?code=SBU
では、
Stod Bhotiの下にStod(Kolong)、Khoksar(Khoksar Bhoti)、Mayar (Mayar Bhoti, Mayari)の三方言を設定しています。つまりミヤール・ナーラーの言葉(パトナム語)を、ラダック語ではなくトゥー語に含めているわけです。そして、
┌┌┌┌┌ 以下、上記サイトより ┐┐┐┐┐
85% intelligibility of Stod Bhoti by Khoksar, 75% by Mayar, 62% of Khoksar by Mayar, 95% of Khoksar by Stod Bhoti. Lexical similarity 74% with Spiti.
└└└└└ 以上、上記サイトより ┘┘┘┘┘
トゥー語とミヤール・ナーラーの言葉は75%が同じだということですが、区分を別にしているトゥー語とスピティ語も74%と同程度。ザンスカール語との比較も知りたいところです。
「西部改新的方言」の区分にも関係してきますし、何より「越境ザンスカーリ」の言葉自体、私はほとんど把握できていないのですから、この見解への是非は今は保留しておきましょう。
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文献:
・Chand, Gian+Manohar Puri (1991) EXPLORE HIMACHAL. pp.186+Annextures. International Publishers, New Delhi.
・Chaudhry, Minakshi (1998) EXPLORING PANGI HIMALAYA : A WORLD BEYOND CIVILIZATION. pp.326. Indus Publishing, New Delhi.
・Handa, Om Chand (1987) BUDDHIST MONASTERIES IN HIMACHAL PRADESH. pp.xiv+216. Indus Publishing, New Delhi.
・西義郎 (2000) チベット語現代諸方言. 亀井孝ほか・編著 (2000) 『言語学大辞典 第2巻 世界言語編(中)』所収. pp.783-789. 三省堂, 東京.
・Sahni, Ram Nath (1994) LAHOUL : THE MYSTERY LAND IN THE HIMALAYAS. pp.304. Indus Publishing, New Delhi.
・Sharma, Shiv Chander (1997) ANTIQUITIES, HISTORY, CULTURE AND SHRINES OF JAMMU. pp.163+pls. Vinod Publishers & Distributors, Jammu Tawi.
・棚瀬慈郎 (2001) 『インドヒマラヤのチベット世界 -「女神の園」の民族誌』. pp.211. 明石書店, 東京.
・Tobdan (1984) HISTORY & RELIGIONS OF LAHUL : FROM THE EARLIER TO CIRCA A.D. 1950. pp.viii+111. Books Today, New Delhi.
・Weare, Gary (1997) TREKKING IN THE INDIAN HIMALAYA : 3RD EDITON. pp.265. Lonely Planet Publications, Hawthorn(Australia).
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