ラダック語の方言区分については、諸説を網羅できているわけではありませんが、まず
・Sanyukta Koshal (1990) The Ladakhi Language and Its Regional Perspectives. Acta Orientalia Academea Scientiarum Hungaricae, Tomus XLIV, no.1-2[1990], pp.13-22.
の区分を見てみましょう。
┌┌┌┌┌ 以下、Koshal(1990)より ┐┐┐┐┐
1. Zangskar Ladakhi : Leh(Lhe)の西方に位置するZangs-kar郡(Tehsil)全体で話されている。
2. Nub-ra Ladakhi : Lhe県(District)北部に位置するNub-ra郡で話されている。Nub-ra方言はさらに上手方言と下手方言に区分できる。
3. Stotpa dialect : Lhe県東部、Up-shi、Sak-ti、Cha-shulなどで主に話されており、その分布はチベットとの境界まで広がっている。この方言は標高の高い地方で話されているもので、「上手」を意味する「stot-pa」が表すとおり(注1)。
4. Sham-ma dialect : Lhe県北西部、Khal-tse、Ti-mis-gam、Sas-polなどの谷で話されている。
5. Central Ladakhi : Lhe Ladakhiとも呼び、Lheとその近郊で話されている。この方言はラダックの共通語にもなっており、ゆえにラダック語を代表する存在とみてよい。
└└└└└ 以上、Koshal(1990)より ┘┘┘┘┘
なお、バルティ語とプリク語は、ラダック語の外に置かれています。
「××Ladakhi」と「△△dialect」の使い分けの意味するところは、5. Central Ladakhiを基準として、3と4は5に近く、1と2は5に遠い、という意味らしい。図示すると、
┌ 1. Zangskar Ladakhi
├ 2. Nub-ra Ladakhi
│ ┌ 3. Stotpa dialect
│ ├ 4. Sham-ma dialect
└ 5. Central Ladakhi
となります。
ラダック語方言とザンスカール語分布地図
・西義郎 (1987) チベット語の方言. 長野泰彦+立川武蔵・編著(1987) 『北村甫退官記念論文集 チベットの言語と文化』所収. p.170-203. 冬樹社, 東京.
でのラダック語方言区分はこれをそのまま採用したもの。
Koshalとは独立した研究である
・Deva Datta Sharma (2003) TRIBAL LANGUAGES OF LADAKH : PART TWO. pp.vii+175. Mittal Publications, New Delhi.
でもほぼ同様の見解が取られています。
ところが、この区分にも関わらず、Koshal(1990)は、Stot-pa dialectとZangskar Ladakhiには発音の上で語頭添前字や語尾添後字が発音されないケースが多い、という共通点があることも指摘。この特徴はラダック語ではなく、ウー・ツァン方言にみられる特徴でもあります。
ザンスカールのおばちゃん
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・George Abraham Grierson(ed.)(1909)LINGUISTIC SURVEY OF INDIA VOL.III TIBETO-BURMAN FAMILY PART I GENERAL INTRODUCTION, SPECIMEN OF THE TIBETAN DIALECTS, AND THE NORTHERN ASSAM GROUP. pp.xxii+621+Appendix+7. → Reprint : (1967) Motilal Banarsidas, Delhi.
は、20世紀初頭のインド全域に渡る言語学調査報告書の一巻。この巻は、インド側西ヒマラヤの諸言語については20世紀後半に至るまでほぼ唯一の資料でした。
そこではLADAKHI(ラダック語)の章でFranckeの研究(注2)を引用し、
┌┌┌┌┌ 以下、Grierson(ed.)(1909)より ┐┐┐┐┐
Francke氏はLadakhiを3つの方言に区分している。すなわち
1. Sham方言は、西はHanu周辺から、東はSaspolaとBasgoの間あたりまでの範囲で話されている。
2. Leh方言は、Shamの東方で話されており、東はだいたいShehまで。
3. Rong方言は、Leh方言分布域の東方で話されている。
Zangskharで話されているチベット語はRong方言と同じであるが、その北西部ではSham方言の影響がみられる。一方、Rubshuでは一種の中央チベット語が話されている。
└└└└└ 以上、Grierson(ed.)(1909)より ┘┘┘┘┘
ここでいう「Rong方言」はKoshal(1990)の「stot-pa dialect」にほぼ一致するものとみられ、ザンスカール語とラダック上手の言語が似ている、とする見解も一致しています。
気になるのは「一方、Rubshuでは一種の中央チベット語が話されている」という文です。Koshalの調査はルプシュまでは手を広げておらず、このルプシュの言葉はKoshalの「stot-pa dialect」には含まれていないとみられます。よってこの内容は確認できません。
ルプシュは中国領チベットと接しており、ンガリー方言(ウー・ツァン方言)の影響が強いことは想像に難くありませんが、具体的な資料に乏しく、私にはあまり踏み込んだ考察もできない状態です。
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しかし最近の研究では、ザンスカール語やラダック上手の言葉をラダック語から切り離す傾向にあるようです。
・Institute of Linguistics, University of Bern : The Tibetan Dialects Project
http://www.isw2.unibe.ch/tibet/Dialects.htm
では
┌┌┌┌┌ 以下、上記サイトより ┐┐┐┐┐
WAT Western Archaic Tibetan-Balti dialects (Pakistan, India)
-Purik dialects (India)
-Ladakhi dialects (India)
WIT Western Innovative Tibetan
-Ladakhi dialects of Upper Ladakh and Zanskar (India)-North West Indian Border Area dialects: Lahul, Spiti, Uttarakhand (India)
-Ngari dialects: Tholing (Tibet Aut. Region: Ngari Area)
CT Central Tibetan-Ngari dialects (Tibet Aut. Region: Ngari Area)
-Northern Nepalese Border Area dialects (Nepal)
-Tsang dialects (Tibet Aut. Region: Shigatse Area)
-U dialects (Tibet Aut. Region: Lhoka Area, Lhasa municipality)
└└└└└ 以上、上記サイトより ┘┘┘┘┘
とし、ザンスカールとラダック上手の言葉をラダック語から切り離し、(この後述べる予定の)スピティ語などと同じ「西部改新的方言」のグループに入れています。このウェブサイトだけではその根拠はわかりませんが、上で述べた資料などを利用した上での見解と思われます。
・Wikipedia > Ladakhi language
http://en.wikipedia.org/wiki/Ladakhi_language
でも、根拠は不明ですが、
┌┌┌┌┌ 以下、上記サイトより ┐┐┐┐┐
The varieties spoken in Upper Ladakh and Zangskar are not Ladakhi but a western dialect of Central Tibetan.
└└└└└ 以上、上記サイトより ┘┘┘┘┘
という見解が取られています。
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・Bettina Zeisler (2005) On the Position of Ladakhi and Balti in the Tibetan Language Family. IN John Bray(ed.) (2005) LADAKHI HISTORIES : LOCAL AND REGIONAL PERSPECTIVES. p.41-64. Koninklijke Brill NV, Leiden(Netherland).
では、ザンスカール語をラダック語の外に出してこそいませんが、ラダック語を「音声的に保守的(な古方言)」と「音声的に改新的(な方言)」に区分し、ザンスカール語をその「改新的(方言)」に入れています(注3)。Koshal(1990)とベルン大学の間を行くような区分でしょうか。
Zeisler(2005)p.59の図の一部を複製したもの
スピティ語などのいわゆる「西部改新的方言」の位置づけはここでは不明ですが、ザンスカール語のグループと同じとみていそうな雰囲気もあります。あるいは、スピティ語などを丸ごとウー・ツァン方言に入れているのか、研究がスピティ語あたりまではまだ手が回っていないのか・・・。
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ザンスカール語とラダック上手の言葉(範囲はいまひとつはっきりしない)を、ラダック語から切り離してスピティ語などと同じ「西部改新的方言」に、あるいはさらに踏み込んで「ンガリー方言(ウー・ツァン方言)」のグループに入れる説が出てきていることは事実です。が、スッキリした結論が出ているとは言い難い。
またザンスカール語やラダック上手の言葉については、依然具体的な資料に乏しく、現状では是非を判断しかねます。
ザンスカール語がラダック語のグループに入ろうがウー・ツァン方言のグループに入ろうが、それは机の上だけの話です。それでザンスカール語の実体が変わるわけではないので、学者に任せておけばそれでいいでしょう。
ここでは「ザンスカール語は、ラダック語にはあまり見られないウー・ツァン方言と似た性格を一部示す」ということがわかれば充分です。
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また前回のエントリーでもちょっと触れましたが、ザンスカール内部でも幾分ヴァリエーションがあるのではないか?とも推測されます。
Hoshi+Tondup Tsering(1978)の語彙集に収録されている発音の中には、Koshal(1990)が述べる特徴に一致せず、ラダック語に近い発音があります。またSharma(2003)の採取した発音(こちらはよりウー・ツァン方言的)とも一部一致しません。
前回も挙げた「'bras(米)」が「ダス」@Hoshi/「デ」@Sharma。その他、「zhag(日)」が「シャク」@Hoshi/「ザ」@Sharma、「gos lag(服)」が「コエラク」@Hoshi/「コル」@Sharma、「spre'u(猿)」が「リウ」@Hoshi/「シェウ」@Sharmaなど、かなりあります。
Koshal(1990)のインフォーマントは不明。ザンスカール語については「2ヶ月の現地調査の結果」とだけ書いており、調査地点は主にパドゥム周辺とみていいかもしれない。またSharma(2003)のインフォーマントはトゥンリ(dung ri)出身。パドゥムに近い村。
一方、Hoshi+Tondup Tsering(1978)のインフォーマントであるトンドゥプ・ツェリンさん(注4)はザンスカール北西部トゥー(ドダ)川流域マンダ(man 'dra)の出身です。先ほどの「その(ザンスカールの)北西部ではSham方言の影響がみられる」が思い出されます。
ザンスカールは「zangs dkar sgo gsum(三つの門戸を有するザンスカール)」という異名を持ち(注5)、ザンスカールの中心地パドゥム~カルシャから、川沿いに三方向に交流を持っていたことが表現されています。
ザンスカール・ゴ・スム
すなわち、北西方にはトゥ(ドダ)川沿いにスル谷/プリクへ、北東方にはザンスカール川沿いにラダック中央~マルハ谷を経てレー/上ラダックへ、南方にはツァラプ川/カルギャク川沿いにラーホールへと門戸が開かれていたわけです。
よって、それぞれの方面では隣接する地方の言語の影響を受けやすく、北西部ではプリク~下ラダックの影響が、北東部では中央~上ラダックの影響が、南部ではラーホール・トゥー語(次回説明します)の影響が強いのではないか、と予想されます。この辺も調査したらおもしろいかもしれません。
トンデから北西を望む
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とまあ、ザンスカール語の位置づけというのはなかなか混迷を深めているわけですが、それだけに言語研究の対象としては、まだあまり手垢が付いていないおもしろそうなフィールドと言えるでしょう。新たな調査・研究の結果によっては「西部チベット語」区分の図式を塗りかえるキー・ロケーションなのかもしれません。
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予想外にどんどん長引いている西部チベット語の話ですが、まだヒマーチャル・プラデシュ州のチベット語(ラーホール・トゥー語、スピティ語、ニャム語)が残っています。次はその辺のお話(その前にいろいろはさまりそうですが)。
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(注1)
stod(上手)は本来、「川の上流部」を指すが、ウー・ツァンの人々にとって、単にstodというと「ヤルツァンポの上手方面=西方」を指す、ことは本blogのタイトルでも述べたとおり。
ヤルツァンポの源流がカン・ティセ付近で尽き、そこから西はインダス川やサトレジ川が西へ下り始めるのだが、そこから先をもウー・ツァンの人々は「stod」と呼ぶ。ここでは「stod」を「西」の代用として使っている、くらいに思えばよろしい。
しかし狭い範囲では、「stod」は本来の「川の上流部」の意味で使われる。従って、ラダック内で「stod」といえば「インダス川上流部=ラダック東部」を意味する。ザンスカールでも同様で「ザンスカール川上流部の支流トゥー(ドダ)川流域」を意味する。
(注2)
・August Hermann Francke (1901) SKETCH OF LADAKHI GRAMMAR. → Reprint : (1979) Motilal Banarsidass, New Delhi.
のこと。未見。
(注3)
Zeislerの区分では、プリク語をラダック語の下に置き、バルティ語と切り離しているのも独特。
(注4)
よくチベット系の人名に敬称をつけたつもりで「○○氏」と呼んでいる文章をよく見かけるが、これはどうなんだろうか?現代のチベット系人名には「姓(氏)」を示す名は入っていないのに。
例として「トンドゥプ・ツェリン」ならば、トンドゥプもツェリンも個人特有の名の一部にすぎない。その親や子が仮に「プンツォク・ノルブ」とか「ソナム・タシ」とか全く共通要素のない名前を持つのもごく当たり前のこと。
名前に「姓(氏)」を示す名が入っていない人を「○○氏」と呼ぶのは不適当じゃないだろうか。
日本や欧米だと姓(氏)+個人特有の名の連名形式だから、「麻生太郎氏」/「バラク・オバマ氏」や「麻生氏」/「オバマ氏」はありだけど、「太郎氏」/「バラク氏」はあり得ないのと同じ。
吐蕃時代のガル・トンツェンならば、「ガル氏のトンツェン」ということだから、この場合「ガル氏」あるいは「ガル・トンツェン氏」はありだろうが・・・。
私は現代のチベット系人名には「氏」は使わず「さん」をつけることにしています。よって「トンドゥプ・ツェリン氏」ではなく「トンドゥプ・ツェリンさん」。
(注5)
「ザンスカール・ゴ・スム」よりもやっぱり「サンカル・ゴ・スム」の方が語呂がいいですね。
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(追記@2009/03/14)
ザンスカール内でのヴァリエーションの話ですが、これがザンスカール内の地域差である可能性に加え、もちろん個人差である可能性もあります。
Hoshi+Tondup Tsering(1978)のインフォーマントであるトンドゥプ・ツェリンさんの場合をみてみましょう。
彼はザンスカール生まれではありますが、16歳でデリーに出てバクラ・リンポチェ(2003年に遷化した先代。インド下院議員であった。2008年に転生者が認定されている)の下で働き、その後Special Center School of Ladakhi, Delhi(おそらく現在のLadakh Bodh Viharと思われる)で学んだ、といいます。
その間、寮のルームメイトはザンスカーリだったそうですが、(インド人は別として)圧倒的にラダッキと話す機会の方が多かったはずです。彼がラダック語レー方言の影響を強く受けていたとしても不思議ではありません。
といってもこれは推測というか可能性の一つにすぎませんから、やはりザンスカール語のフィールド調査を改めてやってみないと、本当はどうなのかわからないでしょうね。
他にも、ザンスカーリでもしょっちゅう商売でカルギルやレーに出ている人、修行のためレー周辺の寺で長年過ごした僧などはザンスカール語インフォーマントとして相応しくないかもしれません。
以前、カルギルでホテルの人に「今話してるのは何語なの?」と聞いたところ、返ってきた答えは「ははは、いろんな所から来る人と話してるから、話してるのがラダッキなのかザンスカーリなのかバルティなのか、自分でももうわかんないよ」でした。
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