2014年4月29日火曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(5)

さて、その「'brog」の意味ですが、ここでもやはり「辺境/僻地」という意味が当てはまるでしょう。では、それは誰がどこから見ての「辺境/僻地」なのでしょうか?

「'brog」はチベット語ですから、当然視点の主体はチベット人になります。中央チベットにいるペルコルツェン王が「'brog」と呼んでいるのですから、中央チベットから見ての「辺境・僻地」となります。

吐蕃時代の7~9世紀にかけて、チベット人は徐々に西方に進出して行きました。そして言語・文化的に土着の人々をチベット化。10世紀初当時、西方のチベット化がどこまで進行していたか定かではありませんが、かつての吐蕃領であり、現在チベット語圏となっているバルティスタン(古代の大勃律)までは「辺境・僻地」ではなく、「こちら側」とみなされていた雰囲気が濃厚です。

ボロル(ブルシャ)は、吐蕃時代には占領地となりチベットの影響が及んでいましたが、吐蕃帝国崩壊後はチベット圏から脱し、言語・文化がチベット化することもありませんでした。

そのさらに外側にいたダルド系民族(シン人)は、吐蕃時代にチベット勢力とまとまった形で接触した形跡はありません。10世紀当時は、チベット側にとってあまり馴染みのない集団だったと思われます。

というわけで、「チベット圏の外側、すなわち辺境/僻地に住む異民族」としてシン人を「'brog mi」と呼んだ、と推察します(注)。

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そしてようやくブロク・ユルのブロクパに戻りますが、ギルギットからラダックに移住してきたシン人の一派は、その故地にいたころの他称を引き継いで、チベット系民族(ラダッキ/プリクパ/バルティ)から「'brog pa」と呼ばれたとみていいでしょう。

「'brog mi」と「'brog pa」はどう違うのでしょうか?

これはなかなか難しい問題ですが、「~mi」の方は、対象は概念的、集合名詞的な用法で、話者にとってあまり身近ではない集団に対して使われることが多いような気はします。

<例>
དམག་མི་ dmag mi (兵士)
རྒྱ་མི་ rgya mi (中国人)

一方、「~pa」の方は、対象は具体的、単複どちらにも使われ、話者がじかに接する者に対して使われることが多いような気はします。

ギルギットという遠方にいて、チベット系民族にとってあまり身近ではない頃には「'brog mi」と呼ばれ、ラダック移住後はじかに接するようになり「'brog pa」と若干呼び名が変更されたのではないか、と推測します。

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話が長くなっているのでまとめておくと、ラダックの「'brog pa」は、ラダックにやって来てからはじめて「'brog pa」と呼ばれるようになったのではなく、故地ギルギットにいる時から「'brog mi」と呼ばれ、移住後もその呼び名を引き継いでいる、という仮説を提唱しているわけです。

しかし今のところ、ギルギットのシン人に対して「'brog mi」という他称が用いられている例を、私は上述の『ニャンレル仏教史』しか知りません。上記仮説を堅固なものにするためには、もう少し実例を集める必要があります。

吐蕃時代にはシン人はまだボロル(ブルシャ)には進出していない様子で、『敦煌文献』にはその名は見当たりません。

ポスト吐蕃時代となると、中央チベットと西方の非チベット系諸国との交流は激減し、情報量もぐっと減ってきます。西部チベットの史書である『ンガリー王統記mnga' ris rgyal rabs/』や『ラダック王統記la dwags rgyal rabs/』には西方諸国との接触は多数現われますが、この「'brog mi」という単語は見つかりませんでした。

バルティスタン関係史料を綿密に当たれば、「'brog mi」についてもう少しわかりそうな気もするので、探索継続。

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『ニャンレル仏教史』での、もう一箇所の登場例も見ておきましょう。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

彼(ララマ・イェシェ・ウー)の帰依所であるセルポ(チェン)(སེར་པོ་(ཅན་) ser po (can))とサガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)が諍いを起こし、彼らによってセルポチェンが殺害された際、ララマが「私の帰依所を殺害したのであるから賠償せよ」とおっしゃったのに対し、「鞍覆ほどもある金塊を献じられるであろう」と夢に見たとおり、ドンツェワン(དོང་རྩེ་ཝང་ dong rtse wang)金鉱(གསེར་ས་ gser sa)という土地が献じられ、それぞれの坑道から金が十荷も取れた。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

残念ながら、ドンツェワン金鉱の位置は不明です。バルティスタンのハプルー(ཁ་པ་ལུ་ kha pa lu)の北、フーシェ谷(Hushe Valley)にあるセルポ・ゴ(གསེར་པོ་མགོ gser po mgo)という地名は、その候補の一つではありますが、どちらもまだ情報不足。

また、セルポ(チェン)という人物についても、これ以上は情報を持っていません。ドクミの住む場所については、結局ここでは手がかりはありません。

しかし、ダルド民族と金鉱の関係は、古くからギリシア/ローマ系史料による報告が多数あり、ドクミ=ダルド民族(シン人)という比定には有利な内容ではあります。

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余談ですが、「'brog mi」でピンときて、気になっていた方も多いのではないでしょうか。

འབྲོག་མི་ལོ་ཙཱ་བ་དཔལ་གྱི་ཡེ་ཤེས་ 'brog mi lo tsA ba dpal gyi ye shes (ドクミ・ロツァワ・ペルギ・イェシェ) [992-1072]

のことです。

サキャパ祖師の一人で、サキャパ開祖コン・コンチョク・ギャルポ(འཁོན་དཀོན་མཆོག་རྒྱལ་པོ་ 'khon dkon mchog rgyal po [1034-1102])の師。訳経師としても名高い。

この「'brog mi」は氏族名。ヤムドクガン(ཡར་འབྲོག་སྒང་ yar 'brog sgang)という場所(おそらくヤムドク・ユムツォ周辺)の氏族です。

ドクミ氏が、古代にギルギット方面から移住してきたという情報は確認できなかったので、おそらくギルギットとは無関係でしょう。yar 'brogという地名が先にあり、それにちなんだ氏族名と思われます。

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(注)

「'brog mi」と似た言葉に「མཐའ་མི་ mtha' mi」という言葉もあります。これは「(国)境の人」という意味ですが、「'brog mi」よりもやや具体的に対象が見えている印象があります。

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(追記)

すでに結論めいたことを言っているわけですが、その他にもう一つの可能性もあります。

それはブロク・ユルのブロクパが「ギルギットのBagrotから来た」と云われていることです。この「Bagrot」が訛って、チベット語の「'brog」に転じた可能性はないでしょうか?

そもそもBagrotという地名がいつから現れるのか?あたりからして、わからないことだらけなのですが、もう少し調べてみたいテーマではあります。

2014年4月26日土曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(4)

以前、ヌプチェン・サンギェ・イェシェ(གནུབས་ཆེན་སངས་རྒྱས་ཡེ་ཤེས་ gnubs chen sangs rgyas ye shes)の年代を推測するのに使った史料で、

・ཉང་རལ་ཉི་མ་འོད་ཟེར་ nyang ral nyi ma 'od zer (12C後半?) 『ཆོས་འབྱུང་མེ་ཏོག་སྙིང་པོ་སྦྲང་རྩིའི་བཅུད། chos 'byung me tog snying po sbrang rtsi'i bcud/ (花蘂の蜜汁なる仏教史)』
→ 通称 : 『ཉང་རལ་ཆོས་འབྱུང་། nyang ral chos 'byung/ (ニャンレル仏教史)』

という文献があります。

現物は所有していないので、その内容は部分的に毎度おなじみの

・Vitali (1996) 前掲.

から孫引きしています。

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そこに、ས་སྒང་འབྲོག་མི་ sa sgang 'brog miという集団が現れます。

一箇所はンガリー・コルスム諸王朝の祖キデ・ニマゴン(སྐྱིདལྡེ་ཉི་མ་མགོན་ skyid lde nyi ma mgon)が西遷しようとするときに、その父ペルコルツェン(དཔལ་འཁོར་བཙན་ dpal 'khor btsan)王がアドヴァイスをするという場面です(注1)。時代は10世紀初。

┌┌┌┌┌ 以下、Vitali(1996)より ┐┐┐┐┐

ティ・キデ・ニマゴンが御馬の口を上手へ向け、上手領土(མངའ་རིས་སྟོད་ mnga' ris stod)へとお移りになる際に、御父上の御口から発せられた「谷が開けたところに住んでいるような者たちであるロ・モン(ལྷོ་མོན་ lho mon)、ブルシャ(བྲུ་ཤ་ bru sha)、バルティ(སྦལ་ཏི་ sbal ti)、サガンのドクミ(ས་སྒང་གི་འབྲོག་མི་ sa sgang gi 'brog mi)など、人とも人にあらざる者ともつかぬ連中がおって危険が多いから、守護神(ཡི་དམ་ yi dam)・護法神(སྲུང་མ་ srung ma)への顕密の儀式の数々を怠ることのなきように」という戒めを堅守しておられるので、ンガリー王(བཙད་པོ་ btsad po)方々の存在そのものが社稷・領土繁栄を保つ大いなる源なのである。

└└└└└ 以上、Vitali(1996)より ┘┘┘┘┘

逐語訳に近い体裁をとっているので、日本語の文章としてはややギクシャク、ダラダラしていますが、チベット文語とはこういう文章なのです。

キデ・ニマゴンの行き先である西チベットのさらに先に住み、敵対する可能性のある集団として、ロ・モン、ブルシャ、バルティ、そしてサガンのドクミの名が挙げられています。

ロ・モンとは、「南のモン」すなわち「ヒマラヤ南縁の異民族」。モンはチベット側から見て、ヒマラヤとインド平原部の間に住む集団の多くに与えられる名称(注2)で、かなり漠然とした表現です。ここでは、西部ヒマラヤ南縁の、大勢力とまでは言えない集団やあまり接触がない集団を、十把一絡げにして挙げたものと考えてよいでしょう。

次のブルシャ、バルティはより具体的です。ブルシャは現在のギルギット~フンザの人々、バルティはいうまでもなくバルティスタンの人々を指します。

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そして問題のサガン・ドクミ。まず「サガン ས་སྒང་ sa sgang」とは何でしょうか?

Vitali(1996)では、一般名詞という解釈をとります。訳語は「雨の降る土地」となっていますが、その根拠はよくわかりません。一般名詞ならば「土盛り/小山」あたりがふさわしい気がします。

都市部から離れた山岳部という意味なのでしょうか?あるいは、土葬の風習(つまり土饅頭)を表したものかもしれません。

しかしこの文脈からすると、地名である可能性の方が高いと思われます。となると、その場所はブルシャ、バルティの近隣に違いありません。

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俄然注目されるのは、ギルギットの古名あるいは雅名とされる「Sargan/Sarjan/Sargin」です。「Sargin-Gilit」と併称されることが多いようです。「sa sgang」は、この名称のチベット語による音写ではないでしょうか。

この場合、ブルシャがすでに挙げられているのにもかかわらず、さらにギルギットが現れるのは違和感を覚えます。しかし、10世紀当時には国名・地域名としては「ボロル/ブルシャ」がまだ現役でした。ギルギットの方は地域名ではなく、まだ国内の都市名にすぎなかったことでしょう。

ギルギットは、一貫してボロル国(分裂後の小勃律)の都であったとみられています。古代にはヤスィン(Yasin)が中心地であった、という説もありますが、磨崖仏や経典が発見された仏塔群などがあるギルギット周辺の方がやはり都にふさわしい、と感じます。

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そして、「sa sgang」に続く「'brog mi」。これはブロク・ユルの「'brog pa」につながる名称でしょう。となれば、ダルド系民族(シン人)を指している可能性大です。

ボロル/ブルシャの原住民は、おそらくブルシャスキー語(もしくはその原語=仮称:ブルシャ語)話者であったろう、と私は推測しています。一方シナー語を話すシン人は、南方から徐々にボロルに進出して行き、上位階級を占めるようになったとみられています。

ブルシャとサガン・ドクミ(ギルギットのシン人)が別扱いされているのは、ボロル国主流(王家と原住民)をブルシャと呼び、新興勢力シン人を「サガンのドクミ」と呼び区別したのではないでしょうか。

ギルギットはボロル/ブルシャの王都ながら、10世紀には新興シン人が多数派を占める、という現在につながる状況ができつつあったのかもしれません。

以下、次回。

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(注1)

一般には、キデ・ニマゴンの西遷はペルコルツェン暗殺後のこととされています。ですから、上記エピソードが史実であるのかは、疑問の残るところです。しかし、西遷前からキデ・ニマゴンが西部チベット方面に興味を持っていたとすれば、実際にこのような会話が交わされた可能性はあるでしょう。

(注2)

「མོན་ mon モン」の語源は、中国語の「蛮(中古音:man)」と同一ではないか、という説があります。「蛮」の方も「南蛮」という具合に、南の異民族に与えられる名称であることが共通しています。

となると、「mon」は中国語からの借用語、と思い込みがちですが、「mon」も「蛮」も共にシナ・チベット語族の祖語(古代羌語はその候補の一つ)から分岐した、という可能性も考慮すべきでしょう。

参考:
・T.S. Murty (1969) A Re-appraisal of the Mon-Legend in Himalayan Tradition. Central Asiatic Journal, vol.13, no.2, pp.291-301.
・Françoise Pommaret (1999) The Mon-pa Revisited : In Search of Mon. IN : Toni Huber (ed.) (1999) SACRED SPACES AND POWERFUL PLACES IN TIBETAN CULTURE : A COLLECTION OF ESSAYS. pp.52-73. LTWA, Dharamsala.

シナ・チベット語族の祖語については、

・橋本萬太郎 (1981) シナ・チベット諸語. 北村甫・編 (1981) 『講座 言語 第6巻 世界の言語』所収. pp.149-170. 大修館書店, 東京.

あたりをまずご覧下さい。

2014年4月23日水曜日

「ブロクパ」とはどういう意味か?(3)

「ダー・ドク མདའ་འབྲོག mda' 'brog(注1)」とは、どういう意味なのでしょうか?

まず、その場所から。

ダー村(注2)の横っちょを流れているダー・ルンパ(མདའ་ལུང་པ་ mda' lung pa)を上流に遡ると、夏の放牧地があります。そこには夏の間は長期間暮らせるように小屋も建てられているようです。これがダー・ドクです。

伝説では、ギルギットから移住して来て最初に住んだ場所がここだったと云います。しかし、まもなく谷を下って村を作り、以来現在までダー村が居住の中心となっています。

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その'brogの意味ですが、これは「離れ/僻地」という意味です。つまりmda' 'brogは「ダー村の離れ」、そしてそれが転じて、実質的には「ダー村の夏の放牧地」を指す、と言えます。

これは、現在のダー村が先に存在しないと意味をなさない地名です。もともとダー・ドクのことをダーと呼び、現在のダー村が成立した後に、最初のダーをダー・ドクと言い換えたのかもしれませんが。

いずれにしても、「ダーより先にダー・ドクという地名があって、それがブロクパの語源」というのは成立しようがありません。

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ここでチベット語の「'brog」、「'brog pa」を見ておきましょう。

チベット語の'brog pa(ドクパ)に対する訳語としては、たいてい「遊牧民」が当てられます。しかし、実は「'brog」に「遊牧」という意味はありません。

遊牧民は、「'brog(僻地)」に住んでいるから「'brog pa(僻地(に住む)人)」なのです。

'brog paは、「རོང་པ་ rong pa(谷に住む人)」/「ཡུལ་པ་ yul pa(村に住む人)」、すなわち「農民」、の対義語として用いられます。農民と遊牧民を対比し、差別化しているわけです。農耕地帯=村落部を中心と位置づけ、そこに属さない辺境・荒野を'brogと、その辺境・荒野で遊牧を営む人々を'brog paと呼んだわけです。

もっと極端な場合、'brog paはབོད་པ་ bod pa (チベット人)と対比した使い方をされるときがあります。これは、'brog paをなかば異民族扱いしている、といえるでしょう。それだけ農民と遊牧民の文化には大きな違いがあるのです。

参考:
・山口瑞鳳 (1987) 『東洋叢書3 チベット 上』. pp.xix+337. 東京大学出版会, 東京.
・R.A.スタン, 山口瑞鳳+定方晟・訳 (1993) 『チベットの文化 決定版』. pp.xviii+389+53. 岩波書店, 東京.
← フランス語原版 : Rolf Alfred Stein (1987) LA CIVILISATION TIBÉTAINE : ÉDITION DÉFINITIVE. pp.ix+252+pls. l'Asiathèque, Paris.

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もうひとつ'brog paの用例を見ましょう。こんどはブータンの'brog paです。ラダック同様「ブロクパ」と呼ばれているようです(注3)。

これは、ブータン東部タシガン県(བཀྲ་ཤིས་སྒང་རྫོང་ཁག bkra shis sgang rdzong khag)の最東端(すなわちブータンの最東端)に住む少数民族です(注4)。

ヤク毛で作った黒いベレー帽ジャム(zhamu)、チベット・コンポのものと似た貫頭衣のユニークな姿を見たことがあるかもしれません。

さて、このブロクパはヤクを使った交易・牧畜を生業とする人々で、遊牧民とまではいかないようです。こちらも語源は「辺境・僻地に住む人々」の意味と思われます。

近隣に住む農民の方も、ブロクパと衣類などの習俗や言語はほぼ同じですが、名称が変わって「དྭགས་པ་ dwags pa(ダクパ)」となります。これは「開けた土地の人」の意味でしょうか?あるいは、中央チベット南東部の地名ダクポ(དྭགས་པོ་ dwags po)と関係あるのかもしれません(注5)。

このブロクパの「'brog」は、ブータン中央から見ての「辺境/僻地」ではなく、農民ダクパと対比しての「辺境/僻地」のような感じですね。

参考:
・野村亨 (2000) ブータン王国における言語状況 : その歴史と現状. ヒマラヤ学誌, no.7, pp.93-114.
・平山修一 (2005) 『現代ブータンを知るための60章』. pp.355. 明石書店, 東京.

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こうして見ると、ラダック・ブロクパの「'brog」も「辺境/僻地」の意味であると推測できるわけですが、では、それは誰がどこから見ての「辺境/僻地」で、それは具体的にどこに当たるのでしょうか?

という話は、次回に。

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(注1)

mda' 'brogは、'brog skadでは「nir dah(ダー宮/ダー城)」と呼ばれています。これはダー村のはずれにあるダー・カル(མདའ་མཁར་ mda' mkhar)とは別。

(注2)

デュロ、メロ、ガロ三兄弟がこの地にやって来て、畑を作ろうとしたが水がなかった。そこでガロが谷の対岸高台(Changlota)から矢(མདའ་ mda')を放つと、岩に刺さりそこから水が噴き出した。そして、そこから村まで水路が引かれた、というもの。ダーの名はこの伝説にちなむ、とされています。

また、その矢が刺さって水が噴き出した場所はダーファンサ(མདའ་འཕན་ས་ mda' 'phan sa = 矢が射られた場所)と呼ばれ、ダー村の聖地の一つになっています。

ダーファンサでは、確かに崖の穴から水が出ているように見えます。しかし、実はなんのことはない、水路が岩のトンネルを通過しているだけです。水路はダー・ルンパ上流から引かれて、この地点でなぜかトンネルになっているだけでした。ダーファンサの伝説も、どうも後づけの作り話としか思えません。

(注3)

ゾンカ語(རྫོང་ཁ་ rdzong kha)では、'brog pa→'byog pa→byogpと変化して「ビョプ」と発音されているそうです。

(注4)

ハイビジョンスペシャル 天空の民"ブロックパ" ブータン・秘境に生きる
2002年初 (120分) NHK-BS1

というTV番組がありましたが未見です。TVをつけた瞬間この番組を発見し、「あっ!」と声を上げたたものの、もうラストシーンでした。もちろん録画もしていません。返す返すも惜しいことをした。垂涎の番組のひとつ。

(注5)

ブロクパとダクパは、民族衣装がほぼ同じこともあり、ガイドブックや旅行記では、2集団を区別せずブロクパと呼んだり、ダクパと呼んだりしており、呼び名は混乱している。