西部チベットの話に戻りましょう。言語や文字に関する話題を少し落ち穂拾いしていきます。
まずは、チベット語分布域の最西端であり、パキスタン実効支配地域にあるバルティスタンの話です。
バルティスタン、バルティ語については 2009年2月28日 「ギィース・ルピア?」の巻 ~西部チベット語の発音(3)プリク語/バルティ語~ を参照して下さい。
チベット語の一方言であるバルティ語(sbal ti'i skad)を表記する文字として、現在はペルシア文字(アラビア文字)が使われています(注1)。これは、同じようにペルシア文字を借用しているカシミール語やウルドゥ語の文化圏と接し、その影響を受けた結果と思われます。イスラム化したことで、イスラム教用語をそのまま取り込むことができるペルシア文字利用は必然だったでしょう。
15~16世紀のイスラム教到来前はチベット仏教が信仰されていたとみられます(注2)。当時はチベット文字が使われていたはずで、チベット文字碑文も各地に残されています。
通常は「チベット文字からペルシア文字に移り変わった」とされるだけですが、その他に独自の「バルティ文字」があった「らしい」ことはあまり知られていません。
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バルティ文字に関する報告はただ一つ、
・George Abraham Grierson(ed.) (1909) LINGUISTIC SURVEY OF INDIA VOL.III TIBETO-BURMAN FAMILY PART I GENERAL INTRODUCTION, SPECIMEN OF THE TIBETAN DIALECTS, AND THE NORTHERN ASSAM GROUP. pp.xxii+621+Appendix+7. → Reprint : (1967) Motilal Banarsidas, Delhi.
だけ。これは英領インド全域にわたる言語調査報告の一巻で、同巻では西ヒマラヤと北アッサムの言語を扱っています。チベット・ビルマ系言語が中心。バルティ語も10ページにわたって取り上げられており、中でも人目を引くのがこのバルティ文字文書です。
バルティ文字による文書は、1900年ごろバルティスタンでキリスト教布教を行っていた宣教師GustafsonからGrierson(実際はS.Konowかなあ?)の手にもたらされました。
内容は、新約聖書「ヨハネの福音書」の一節をペルシア文字表記のバルティ語に翻訳し、それをさらにバルティ文字で記したものです。ですから、厳密には「バルティ文字で書かれたオリジナルの文書」とは言えません。
Gustafsonは聖書のバルティ語訳に従事していましたから、ペルシア文字表記バルティ語への翻訳を行ったのはGustafsonでいいでしょう。問題はそれをバルティ文字に変換したのは誰か?ということですが、Grierson(ed.)(1909)にはその答えはありません。バルティ人インフォーマントがペルシア文字からバルティ文字に変換してくれたのか、インフォーマントからバルティ文字を学んだGustafsonが自分でバルティ文字に変換したのか、肝心なところがわかりません。
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とにかくその例文を見てみましょう。これがその例文↓
Grierson(ed.)(1909)より複写
読み方は、各行内では右から左へ進み、行は下へと進んでいきます。
なんとも唖然とする字体が並んでいます。あるものはチベット文字のようでもあり、パスパ文字のようでもあり、シャンシュン文字印刻体のようでもあり、あるものはアラビア/ペルシア文字のようでもあり、アルファベットのようでもあり、と、形は実にヴァラエティ豊かです。
なにか悪い夢でも見ているかのような思いがしますが、オカルト屋さんが「これは宇宙人の文字」とホラを吹いたら信じる人もいそう。
いったいこれは、どこから来てどうやってできた文字なのでしょうか?次回はこの解読を試みてみましょう。
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(注1)
ペルシア文字をそのまま使っているのではなく、既存のペルシア文字では表現できないバルティ語の発音を表記するために、独自の文字をいくつか造字して加えているようだ。
チベット文字とペルシア文字+改変ペルシア文字の対応は下の表の通り。
出典は
・Mohamad Yusuf Hussainabadi (1990) BALTI ZABAN. Partially Reproduced IN : Michael Everson (2005) Proposal to Add Four Tibetan Characters for Balti to the BMP of the UCS. pp.6.
http://std.dkuug.dk/jtc1/sc2/wg2/docs/n2985.pdf
造字は、kh=k+h、ch=c+h、th=t+h、ph=p+h、tsh=ts+h、dz=d+z、zh=z+y といった簡単な組み合わせが大半だが、独特な造字法もある。ngは、nの上に「・」をもう一つ加えて作る。nyは、ng+yという造字になる。
Everson(2005)は、バルティ語独特の発音をチベット文字で表記するために、バルティスタンで試行的に創作され用いられている四文字をコードに追加しようという提案。バルティスタンでは、チベット文字を復活させようと言う動きがあリ、この提案もその流れの一環と思われる。
参考:
・Times of India > Tibetan script makes a comeback in Pakistan
28 Mar 2002, 0818 hrs IST, Siddharth Varadarajan, TNN
http://timesofindia.indiatimes.com/articleshow/5135022.cms
(注2)
イスラム化以前、バルティスタンの仏教がどのようなものであったか?その記録も、今では寺院・僧院の消滅と共にきれいさっぱり消えてしまい、すっかりわからなくなっている。
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