2009年7月13日月曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(7) チベット文字ドゥツァ体

チベット文字にはいろいろな字体があります。一般によく見る

はウチェン(dbu can/有頭字)と呼ばれ、いわゆる楷書体・活字体です。これに対し主に筆記体として用いられるウメー(dbu med/無頭字)という字体があります(注)。

そのウメーの一種に、「ドゥツァ/ジュツァ('bru tsha)体」という字体があります。

図の出典は、
・Alexander Csoma de Körös (1834) A GRAMMAR OF THE TIBETAN LANGUAGES. Calcutta. → Reprint : (1938) 文殿閣書荘, 北京.

「'bru tsha」は「bru sha/'bru zha」の訛りとされ、これは当然「ブルシャ起源の書体」を意味すると推測されています。しかし、前述のように、ギルギット~フンザ周辺では発掘経典や碑文がかなり発見されていますが、その中に「ドゥツァ体」とみられる書体は見あたりません。ですから、本当のところそれが事実であるのか不明です。

そもそも、かつてギルギット~フンザ周辺でチベット語・チベット文字がどの程度普及していたのかもわかりません。仮にブルシャ起源の書体であったとしても、それは元々チベット語・文字を表記するためではなく、他言語を表記するための文字で、チベット文字用にある程度アレンジされた上で伝わった書体なのでしょう。

また、この書体がいつ、どういう経緯でチベットに伝わったのかも謎です。わからないことだらけですね。というより、今まで注目されたことがなかった、というのが実状でしょう。

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ドゥツァ体は、行政文書や書籍のタイトルなどに装飾文字として用いられることが多い書体のようですが、もともとはボン教に関係する書体ではなかろうか?とも考えられます。

というのも、ドゥツァ体には「キュン体(khyung bris)」という異名があります。ブル/ドゥ('bru)もキュン(khyung)もボン教と縁の深い言葉です。

キュン=ガルーダ(Garuda)はボン教と関係の深い尊格であり、ボン教/シャンシュン王国における最重要氏族キュンポ(khyung po)氏の名ともなっています。そして、ブル/ドゥもまたボン教の有力氏族の名なのです。

このまま行くとボン教方面に話題が移ってしまいますが、その前にブルシャとチベット仏教との関わりについて見ておかなければなりません。

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(注)
ウメーは種類が多く、ドゥツァ体の他に、バムイク('bam yig)=スグリン(sug ring)、スクトゥン(sug thung)、ザプディー(gzab bris)、バルディー(bar bris)などがある。

出典は、
・長野泰彦 (2001) チベット文字. 河野六郎ほか・編著 (2001)『言語学大辞典 別巻 世界文字辞典』所収. pp.595-601. 三省堂, 東京.

2009年7月9日木曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(6) シンとヤシクーン

カラコルム地域は今でこそイスラム化してはいますが、かつてはインド文化と共通したカースト制度を持っていました。インド本土ほど複雑なものではなく、カースト間の婚姻もわりとゆるいシンプルなものですが。

パキスタンはカースト制度を否定するイスラム教を国教とする立場上、最近の本で詳しく取り上げられることはありませんが、インド文化の残滓といえるカースト制度は今もある程度残存しているようです。19世紀にはカースト制度の名残も現在より色濃く、当時の本ではかなり詳しく報告されています。

ここでは主にBiddulph(1880)の報告に基づき、主に19世紀のギルギットの様子をまとめてみます。

最上位に位置するのが王族「ラジャ(Raja)」です。その下には豪族・領主階級「ロノ(Rono)」がいます(インドの「Rana」に対応する)。Ronoは、Raja=トラカン王朝同様その出自をペルシアやアラブに求めていることが多いようですが信憑性はありません。出自がカシミール、という説は信憑性がありそうです。

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その下に来るのが「シン(Shin)」です。ギルギットを中心とした一帯で話されているシナー語(Shina)の名は彼らの名から取られています。彼らは高位カーストとされてはいますが、特に武士カースト(クシャトリヤ)に相当するというわけではなさそうです。

彼らに特徴的なのは、土着ではなく南の方から移り住んだと伝えられていること(注1)、インド的なヒンドゥ教の影響(らしき風習)を色濃く残していることです。

南といってもそれほど遠くなく、インダス川下流方面のチラス(Chilas)/コーヒスタン(Khohistan)~カシミール直北のキシャンガンガー(Kishanganga)あたりが原住地とみられています。カシミール史にはカシミールのすぐ北に住む異民族「Darada」が頻繁に現れ、カシミールの王家とは敵対したり同盟したり同化したりと密接な関係を続けています(注2)。このダラダとシンはほぼ同一勢力であったと考えてよさそうです(注3)。

シン人に「sing(singhに同じ/獅子)」を姓に持つ人が多いことは、西インドを発祥とするラージプート(Rājpūt)と共通しています。また牛に関する禁忌も、ヒンドゥ教の牛を神聖視する風習が、イスラム化後に忌避という形に転じて生き残ったものと推測されています(注4)。

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シンの下に置かれているのが「ヤシクーン(Yashkun)」。これがギルギット~フンザの原住民とされます。不思議なのは、シナー語話者であるギルギットのヤシクーン、ブルシャスキー語話者であるフンザ~ナガルのヤシクーン(注5)は言語の違いにもかかわらず同じ扱いになっていることです。出自が同じとみられているわけでしょう。

シン人が南に起源を持ち、北へと移動してきたことを考えるならば、ギルギットのヤシクーンは元来シナー語話者ではなくブルシャスキー語話者で、シン人移住後その影響を受けてシナー語を話すようになった、という仮説が成り立ちます。

ブルシャスキー語分布域を見てみましょう。現在は東のフンザ~ナガルを中心とする地域と西のヤスィンを中心とする地域(注6)に分かれています。

カラコルム地方言語地図

その間は、北からはワヒー語が、南からはシナー語が食い込んで両地域を分断していることがわかります。ワヒー語が後来の言語であることは明らかです。またシナー語・文化も南からやって来たと推測されています。比較的近年に、フンザ~ナガルからヤスィンに(あるいはその逆)大規模な移民が行われたという記録(伝承)もありません。

ということは、ヤスィンとフンザ~ナガル間のプンヤール、イシコマン、グピスあたりも元々はブルシャスキー語の分布域で、後にシナー語・文化圏に取って代わられ、またさらに後には北から移住してきたワヒー人によって北部はワヒー語文化圏になったのであろう、と推測できます。

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というわけで、カラコルム地域では古来より広くブルシャスキー語(あるいはその祖語)が話されていたのではないか?という仮説は一応立てることは可能です。しかしなにしろ肝心な古い時代の言語資料が一切ないので、今のところは仮説に留まります。

「ヤシクーン」というカーストの存在が特に重要になりますが、これが本当に昔は全部ブルシャスキー語を話していたのか?が問題となります。

F.M.Khan(2002)では、「ギルギットのヤシクーンは古くからシナー語を話していた」という説を唱えています。そうすると、ブルシャスキー語を話すフンザ~ナガルのヤシクーンとはどういう関係になるのでしょうか?残念ながら、この著作ではそれに対する答えはありません。

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「カラコルム地域全域(古代ボロルの領域)ではかつてブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた」という仮説は検討する価値はあると思っていますが、充分検証せず、これを前提にいろいろな話を進めていくと、一挙にトンデモ方面に足を踏み入れてしまいますので、ここでやめておきます。

しかし、断片的な情報ではありますが、この説を補強できそうな資料が意外な方面にありました。チベット語文献です。

というわけで、チベット方面に一度戻りましょう。

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(注1)
ただし、シン人の北上の過程はあまりわかっていない。シン人がまとまった勢力として武力でギルギットを制圧したような記録(伝承)はないため、おそらく長い時間をかけてギルギットの社会に食い込んでいき、上位カーストとしての地位を確立したものと思われる。

(注2)
ムガル帝国に併合される直前、独立カシミール王国の最後を飾るチャク(Chak)朝(1555~89)はこのダルドの王朝。

カシミール語もシナー語と同じダルド諸語に区分されている。ただしカシミールは古くからインド側と交流があり、ダルド諸語の中で一番インド・アーリア系言語の影響が強い(ダルド諸語に多くみられるいわゆる「二十進法」はカシミール語では失われている)。

カシミール人とシン人(ダルド)は近接して住んでおり、元来両者の間にどれほど差があったかわからない。カシミール人・文化はインドからの影響を受けつつ同時に周辺民族を同化し取り込んでいった。

(注3)
「Darada」という集団名・地名は、ヘロドトス(BC5C)『歴史』に、ハカーマニシュ(アケメネス)朝ペルシア支配地の東端に位置し、ガンダーラの隣国の人々「Dadikai」として現れる。その後もストラボン(AD1C)『世界地誌』には「Derdai」として(位置は東インドと間違っているが)、大プリニウス(AD77)『博物誌』には「Dardae」として、プトレマイオス(2C)『地理学』では「Daradrae」としてその名がギリシア・ローマに伝わっている。

参考:
・松平千秋・訳(1967) 『世界古典文学全集 第10巻 ヘロドトス』. pp.456+29+pls. 筑摩書房, 東京.
・Luciano Petech (1977) THE KINGDOM OF LADAKH C.950-1842A.D. pp.XII+191. IsMEO, Roma.
・織田武雄・監修, 中務哲郎・訳 (1986) 『プトレマイオス地理学』. pp.xvi+263+pls. 東海大学出版会, 東京.
・中野貞雄+里美+美代・訳(1986) 『プリニウスの博物誌 第I巻』. pp.vi+531. 雄山閣出版, 東京.
・Dani(1991)前掲.
・飯尾都人・訳(1994) 『ストラボン ギリシア・ローマ世界地誌II』. pp.696. 龍溪書舎, 東京.

「シン=ダラダ/ダルド」という認識が正しければ、シナー語を代表とし、コワル語、カラーシュ語などを含めた総称「ダルド諸語」という用語はさほど悪いものではありません。ところが「ダラダ/ダルド」はあくまで他称ですから、シン人やコワル人などが直接「ダルド人」と呼ばれたり、カラコルム地域一帯が「Dardistan」と呼ばれたりするのは現地の人々には抵抗があるようです。

というわけで、現在は個別の民族名・言語名としての「ダルド」という呼び名はほぼ絶滅していて、民族学・言語学上でシン人/シナー語やコー人・コワル語などを含む諸民族・諸言語の「総称」として生き残っているだけになります。

(注4)
シン人は、牛に対する禁忌を持っていることがきわめて特徴的。かつては牛肉を食べない、牛乳を飲まない、なるべく触ることもしない、という徹底ぶりだった。所有はしても、飼育は下位カーストの使用人にさせていた。今はだいぶ消滅してきているようだ。

ヒンドゥ教では、シヴァ派にとってはシヴァ神の乗り物である牡牛ナンディ(Nandi)崇拝として、ヴィシュヌ派にとってはヴィシュヌ神の化身とされる牛飼い出身の英雄クリシュナ(Krishna)に対する信仰が、牛への神聖視に発展したものとされている。

参考:
辛島昇ほか・監修(1992) 『南アジアを知る事典』. 平凡社, 東京. → (2002) 改訂増補版. pp.1005.

シン人の牛に関する禁忌は、イスラム化後に神聖視が忌避という形に転じて生き残ったものと推測されている。

これとは別に、私見ではありますが、シン人の牛忌避習俗の起源は、シャクティ(女神)信仰と関係しているのではないか?とも考えているのですが、これは長くなるので稿を改めましょう。

なお、この風習はシン人の別派であるラダック・ダー・ハヌーのブロクパにも残っているが廃れつつあるのは同様。また、カラーシュ人にもあるようで、ダルド系民族全体の歴史を探る上でも重要な風習と思われる。この辺も突っ込み始めるときりがないので、ここまで。

(注5)
フンザ~ナガルでは、シンはごく少数派。

(注6)
ヤスィンのブルシャスキー語はウェルチクワル語(Werchikwar)と呼ばれ、他言語の影響が少ない古形を保持していると考えられている。

「Werchikwar」とはまた奇怪な響きを持つ名だが、実はこれが「bru sha」、「Burusho」につながる単語ではないか?という推測もある。しかし今のところ結論は出ていない。

2009年7月6日月曜日

「ブルシャスキーって何語?」の巻(5) 古代ボロルの言語は何だ?

ブルシャスキー語はいつから話されていたのでしょうか?そしてその範囲はどこまで広がっていたのでしょうか?

ブルシャスキー語が西欧人に知られるのは、イギリス人がこの地域に入り込むようになった19世紀半ば以降。Biddulph(1880)はこの言語を「Boorishki」と表記しましたが、初めての本格的な言語学的研究であるLorimer(1935~38)では「Burushaski」と表記され、以来この表記が一般的となっています。

それ以前にはブルシャスキー語の存在を示す報告は今のところ見あたりません。

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玄奘が『大唐西域記』の鉢露羅(Bolor)国の条で伝えている

「文字はおおむね印度と同じであるが、言語は諸国と異なっている。」(注1)

は、630年頃のボロルの言語を推測する上で重要です。玄奘が通過して来た周辺国で話されている、イラン系言語、テュルク系言語、インド・アーリア系言語、そしてカシミール語(シナー語とカシミール語は同グループ)とも違っていたものと推測できます。しかしこれがブルシャスキー語(あるいはその祖語)かどうか、判断できる材料はありません。

次に、慧超が『往五天竺国伝』の大勃律・揚同・娑播慈(注2)の条で伝えている

「衣服、言語、風俗もすべて(インドと)異なっている。・・・当地は胡人がいるので(仏法を)信仰しているのである。」(注3)

また小勃律の条で伝えている

「衣服、風俗、飲食物、言語は大勃律と似ている。」(注3)

も、720年頃のボロルの言語状況を伝える数少ない資料です。慧超は直接ボロル方面に足をのばしたわけではなく、これは伝聞による情報と考えられていますが、その情報の正確さには定評のあるところです。

インドと異なる言語が話されていた、とする情報は玄奘と矛盾しませんが、それをこえるようなものではありません。ここで貴重なのは、大・小勃律が似た言語を話している、という情報です。

大・小勃律はもともと一つの国(ボロル/勃律)なのですからそれほど不思議ではありませんが、シナー語、ブルシャスキー語、ワヒー語、バルティ語という系統の違う言語に細かく分かれている現状とは大きな違いです。

しかし当時の言語が具体的にどのような言語であるのか?ブルシャスキー語(あるいはその祖語)であるのか?という問題は依然わからないままです。

「胡人がいる」という情報からはコーカソイドの形質を持つ人々の存在を窺わせますが、玄奘の情報から、彼らの言語はイラン系でもインド・アーリア系でもなかったと推測できます。これはまさに現在のフンザそのものの状況であって、なかなかにわくわくするわけですが、どうしてもその肝心の言語自体にたどりつきません。

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8世紀よりチベット語で「ブルシャ(bru sha/'bru zha)」という名が現れます。これが「ブルシャスキー」という言語名と深く関係しているのは間違いないはずです。

かといってこの地名の存在だけで、当時すでにブルシャスキー語あるいはその祖語が話されていた、という証拠にはなりません。それにこの頃は、フンザ~ナガルだけではなくバルティスタンからカラコルム一帯がブルシャと呼ばれていたはずです(バルティスタンは後にブルシャの範囲からはずれますが)。ブルシャスキー語は古代にはこの広い範囲で話されていたのでしょうか?

先の慧超の報告「大・小勃律の言語は似ている」から判断するに、その可能性は高そうです。しかしなんとか肝心なその言語の実体にたどりつきたいものです。

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カラコルム各地に残されている経典や碑文のうちで紀元千年紀中のものは、大半がインド方面で使われていたインド系の言語(ガンダーラ語、サンスクリット語など)・文字(カローシュティー文字、ブラフミー文字、グプタ文字など)でつづられています。このあたりの事情は、玄奘が伝える情報と一致します。

しかし、この地域でそれらの言語が日常語として使われていたとは思えません。これら外来の言語・文字を知っていたのは、支配者階級や宗教関係者のみだったことでしょう。現地の言語を表記する文字は、ごく最近まで存在しなかったのですから、碑文を残す場合は経典で親しんだ外来の言語・文字で記すことになったのであろう、と推測できます。

というわけで、経典や碑文に現地の言語を伝えてくれるものは発見されていません。困ったものです。

この問題はなかなかつかみ所がないのですが、次回はもう少し別の方面から攻めてみましょう。

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(注1)
訳文は、

・水谷真成・訳注(1971) 『中国古典文学大系 大唐西域記』. 平凡社. → 再版 : (1999) 『大唐西域記 1~3』. pp.380+396+493. 平凡社東洋文庫653・655・657, 東京.

による。

(注2)
大勃律は東西(大小)分裂後のボロル/勃律の東側、現在のバルティスタン。揚同は羊同に同じく、シャンシュンと推定されている。娑播慈は今のところ不明だが、おおむねラダックあたりだろう、という意見が大勢を占める。

訳文は示さなかったが、この三国は吐蕃支配下にある、と記されており、720年頃の西部チベット~カラコルムの政治情勢を伝える貴重な記録でもある。

(注3)
訳文は、

・桑山正進・編 (1998) 『慧超往五天竺國傳研究 改訂第二刷』. pp.xii+292+pls. 臨川書店, 京都.

による。