stod phyogsとは、チベット語で「上手方面」の意味。チベットを東西に流れる大河ヤルツァンポの上手側=西部チベット、そしてさらに西の方 にあたります。
2016年1月25日月曜日
ヒマーチャル小出し劇場(30) ンガッパ・イェシェ・ドルジェ・リンポチェとジルノン・カギェリン・ゴンパ
久々に古い書きものを引っ張り出したら、なんかおもしろくなっちゃって、続けてやはり十数年前に書いたガイドブック用の原稿から、ラマの伝記を。またニンマパだ。
それにしても、自分が書いたものながらおもしろい。素材がいいからであるのは言うまでもありませんが。
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Zilnon Kagyeling Gompa(ཟིལ་གནོན་བཀའ་བརྒྱད་གླིང་དགོན་པ་ zil gnon bka' brgyad gling dgon pa)
Dharamshala(धर्मशाला)の上手、チベット人の町McLeod Ganj(मक्लोड् गंज)。バス停から東へBhagsu Rd.を1kmほど進むとTIPA(Tibetan Institute of Performing Arts/チベット舞台芸術研究所)の真下に新しい立派なゴンパが現れる。
これがジルノン・カギェリン・ゴンパ。ニンマパ。創建は1987年と新しい。再建僧院ではなく新設の僧院である。
創建者のイェシェ・ドルジェ・リンポチェは「シェードゥルパ(གཤེད་འདུར་པ་ gshed 'dur pa/悪霊祓い師)」、「チャルチューパ(ཆར་གཅོད་པ་ char gcod pa/雨乞い師)」として有名だった出家行者。このゴンパでは、ニンマパ秘技中の秘技ともいえる、これらの呪術の継承と行者の育成に力を入れている。数あるゴンパの中でも最もユニークなものの一つ。
イェシェ・ドルジェ・リンポチェ遷化後は名目上ケンポ・ギュルメー・ティンレー・リンポチェ(མཁན་པོ་འགྱུར་མེད་འཕྲིན་ལས་རིན་པོ་ཆེ་ mkhan po 'gyur med 'phrin las rin po che)が座主となったが通常はアメリカ在住で、実際はイェシェ・ドルジェの高弟が指導している。現在は十名ほどの僧が修行に励んでいる。特に3年3カ月3日の隠遁修行はこのゴンパの名物。
お堂は2階建て。上下に小さなお堂がある。拝観料はお布施で。ここはゲストハウスもあり旅行者も泊まることができる。
この僧院がどういう存在なのか知っている人はあまりいないので、わざわざ訪れる人は少ないでしょう。
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Ngagpa Yeshe Dorje Rinpoche(སྔགས་པ་ཡེ་ཤེས་རྡོ་རྗེ་རིན་པོ་ཆེ་ sngags pa ye shes rdo rje rin po che)(1926-1993)
カムトゥル・ンガクチャン(ཁམས་སྤྲུལ་སྔགས་འཆང་ khams sprul sngags 'chang)とも呼ばれる。
1926年、カム(ཁམས་ khams)のマルカム(སྨར་ཁམས་ smar khams 芒康)に生まれる。彼が生まれたドムパツァン家(སྡོམ་པ་ཚང་ sdom pa tshang)は代々続くニンマパ行者の家系で、父ウギェン・ドルジェ(ཨོ་རྒྱན་རྡོ་རྗེ་ o rgyan rdo rje)も行者であった。先祖では17世紀のヨーギ・タシ(ཡོ་གི་བཀྲ་ཤིས་ yo gi bkra shis)という行者の逸話が残っている。
イェシェ・ドルジェは、四人兄弟の三男(一人は女)。5歳の時、山中で突如姿を消し、とても幼児が到達できない崖上の洞窟で発見されるという奇跡を見せた。父が高僧に相談したところ、17世紀のニンマパ・テルトン(གཏེར་སཏོན་ gter ston/埋蔵経典発掘者)であるミギュル・ドルジェ (མི་འགྱུར་རྡོ་རྗེ་ mi 'gyur rdo rje)の転生者と認定された。イェシェ・ドルジェは出家し、ミギュル・ドルジェが開いたド・ンガク・チューリン・ゴンパ(མདོ་སྔགས་ཆོས་གླིང་དགོན་པ་ mdo sngags chos gling dgon pa/在マルカム)で初等教育を受ける。
1938年頃、行者となることを決意しゴンパを出奔。ラサへ向かう。ラサではコギョン・リンポチェの下で5年間修行。その後コンポ・ボンリ(ཀོང་པོ་བོན་རི་ kong po bon ri)近くのラマリン(བླ་མ་གླིང་ bla ma gling/別名:サンド・ペルリ・ゴンパ ཟངས་མདོག་དཔལ་རི་དགོན་པ་ zangs mdog dpal ri dgon pa)で、ドゥジョム・リンポチェ(བདུད་འཇོམ་རིན་པོ་ཆེ་ bdud 'joms rin po che)について修行を続ける。特に、3年3カ月3日の隠遁修行を、コンポ~ロダク(ལྷོ་བྲག lho brag)の各地で何度も行っている。ある石窟での瞑想修行では、2年に渡り雪男一家が食べものと薪を毎日運んでくれる、という奇怪な出来事も体験している。またプーマ・ユムツォ(པུ་མ་གཡུ་མཚོ་ pu ma g-yu mtsho)の孤島で隠遁修行を行った際には、氷の橋を歩いて渡り湖岸まで到達するという奇跡も見せているという。
この修行により、イェシェ・ドルジェはヨーガ行や様々な呪術を修得。人々の求めに応じて行った、天気を自由自在に操る「チャルチュー」や死霊を祓う「シェードゥル」の術はいずれも成功を収め、その名声は高まっていく。
時あたかも1950年代。日に日に中国政府の締め付けが厳しくなっていく時期であった。イェシェ・ドルジェは1957年インドへ巡礼。その後カン・リンポチェ(གངས་རིན་པོ་ཆེ་ gangs rin po che)の巡礼、シッキムとチベットを行き来し、1959年以降はDarjeeling(རྡོ་རྗེ་གླིང་ rdo rje gling)に定住した。その間に結婚し、二男児をもうける。Darjeeling滞在中もチャルチューパとしての実力は高く評価された。しかし地元のチャルチューパとの間に軋轢が生じ始め、1969年DharamshalaのTCV(Tibetan Children's Village)に居を移し小さな僧院を開いた。
Dharamshalaでも求めに応じチャルチューの術を施すうちに、その評判がダライ・ラマ法王の耳に入る。両リンポチェは親交を深め、ダライ・ラマ法王の重要な法要の際には、チャルチューの術を要請されるようになった。
Dharamshala時代には、先の二男児に加え一男児と一女児を得た。一人の男児はニンマパ高僧の転生者と認定され、テンジン・サンポ(བསྟན་འཛིན་བཟང་པོ་ bstan 'dzin bzang po)として現在カトマンドゥで活躍中。
1987年10月には亡命政府の資金援助を得て、現在の場所にZilnon Kagyeling Gompaを創建する。開山式にはダライ・ラマ法王も招かれ、グル・リンポチェ(གུ་རུ་རིན་པོ་ཆེ་ gu ru rin po che/पद्मसम्भव Padmasambhava)の儀式を行った。
しかしその後イェシェ・ドルジェの健康は思わしくなく、1993年に遷化した。
2001年には南インドのチベット難民の少年がイェシェ・ドルジェの転生者(ンガッパ・リンポチェ སྔགས་པ་རིན་པོ་ཆེ་ sngags pa rin po che)として認定され、2002年からZilnon Kagyeling Gompaで修行中という。
参考:
・Masha Woolf & Karen Blanc (1994) THE RAINMAKER : THE STORY OF VENERABLE NGAGPA YESHE DORJE RINPOCHE. xxii+106pp. Sigo Press, Boston.
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