Kinnaur(ཁུ་ནུ་ khu nu)の仏教寺院でよくみかける写真に、右手を胸にかかげた青い目の老僧の肖像がある。一見するとヒンドゥー教のシャドゥー(साधु)かとも見まがう姿だ。これがKinnaur随一の仏教学者クヌ・リンポチェ・テンジン・ギェルツェン(ཁུ་ནུ་རིན་པོ་ཆེ་བསྟན་འཛིན་རྒྱལ་མཚན་ khu nu rin po che bstan 'dzin rgyal mtshan)。生前はNegi Lama(ནེ་གི་བླ་མ་ ne gi bla ma)と呼ばれていた。NegiとはKinnaur人(ཁུ་ནུ་པ་ khu nu pa)を表す姓。
Ropa(རོ་པག ro pag/रोपा)谷Sunnam(सुन्नम)出身の在家の行者で、一生を通じチベットやインドで勉強し、在家ながらついには大仏教学者としてチベット、インドで尊厳を集めた。死後にはリンポチェと呼ばれ、転生者が選ばれるまでとなった。
Negi Lamaは1894年、Sunnamの裕福な家庭に生まれた。その生家は現在もNegi Pangとして有名。十代にして一家の反対を押し切って在家の行者となることを決意し、19歳のとき(1913年ころ)シッキムに向かった。そこでまず3カ月間ウギェン・テンジン(ཨོ་རྒྱན་བསྟན་འཛིན་ o rgyan bstan 'dzin)師の元でチベット語文法を学ぶ。
文法をマスターすると、次にチベットへと旅立つ。チベットではまずシガツェ(གཞིས་ཀ་རྩེ་ gzhis ka rtse)のタシルンポ寺(བཀྲ་ཤིས་ལྷུན་པོ་དགོན་པ་ bkra shis lhun po dgon pa)で9カ月学び、ギュクチュン(རྒྱུགས་ཆུང་ rgyugs chung/入門試験)を通過している。続いてラサ(ལྷ་ས་ lha sa)郊外カンダ・トゥルク・ゴンパ(ドゥクパの寺、正確な場所不明)に6年間滞在しカンダ・ノルブー師の元で「大印の秘法(チャクギャ・チェンポ ཕྱག་རྒྱ་ཆེན་པོ་ phyag rgya chen po/महमुद्र Mahamudra)」を習得し、かつ文法教師としても有名となった。しかしこの評判が一部で反感を買うようになり、ついにはラサを去らざるを得なくなる。
続いて向かったのはカム(ཁམས་ khams/東チベット)。カムには19年間滞在した。デルゲ(སྡེ་དགེ sde dge)王家で教師として働くかたわら、仏教諸派からボン教まで、宗派を問わず多くの場所を巡礼し、百人の僧、行者から教えを受けたという。中でも洞窟に住む行者から9カ月に渡って講義を受け習得したKalacakra Tantra(कालचक्र तन्त्र/དུས་ཀྱི་འཁོར་ལོ་རྒྱུད་ dus kyi 'khor lo rgyud)はその後、Negi Lamaの名声を高めることとなる。こうしてNegi Lamaは、博識な「ギャカル・ラマ(རྒྱ་དཀར་བླ་མ་ rgya dkar bla ma/インドのラマ)」として、カムではすっかり有名となった。Negi Lamaは特定の宗派には属さず、当時デルゲを中心としてカムで盛んであった超宗派運動(リメー རིས་མེད་ ris med)の一翼を担う存在でもあった。
1940年代前半、師はサンスクリット語を習得するため、インドへ向かうことを決意する。まず故郷Kinnaurに30年ぶりに戻る。Kinnaurでも師の名声はすでに高く、大歓迎を受けた。Kinnaurには数年間滞在。各地に招かれ講義を行うかたわら、ラサでの講義をまとめた文法書を執筆、彼の初の著作となった。
1950年ころKinnaur滞在を終え、Negi LamaはKolkata(कोलकाता)に1年間滞在した後、Varanasi(वाराणसी)でサンスクリット語の勉強に励む。しかしこの地ではスポンサーは見つからず、Negi Lamaは食うや食わずの貧しい生活を送っていた。にもかかわらず学者としての名声は日に日に高まり、インド各地の仏僧から講義を請われる機会も多かった。
1959年、ダライ・ラマ法王がチベットからインドへ亡命。まもなく法王もNegi Lamaの高名を知り、リン・リンポチェ(གླིང་རིན་པོ་ཆེ་ gling rin po che、法王の教師)と共に教えを請うた。Negi LamaはBodhgaya(बोधगया)に移り、そこで度々ダライ・ラマ法王をはじめ、チベットを脱出してきた多くの僧に講義を行う。宗派を問わず学んだNegi Lamaが授けたこの講義は、チベット仏教の復興に大きく貢献したと言われている。
1977年、Negi Lamaは老体にむち打ちKinnaurに向かい各地で講義を行う。次いでLahaul(लहौल/གར་ཞ་ gar zha)でも講義を行ったが、その途中Keylong(ཁྱེ་ལང་ khye lang/केलंग)のシャシュル・ゴンパ(ཤ་ཤུག་དགོན་པ་ sha shug dgon pa)滞在中に亡くなった(2月23日)。
その死後、Negi Lamaは出家僧ではないにも関わらずクヌ・リンポチェと呼ばれ、ついにはその転生者が選ばれるまでになる。
クヌ・リンポチェ2世は1978年デンマーク生まれ(父はチベット人、母はデンマーク人)。Dehra Dun(देहरादून)のミンドルリン・ゴンパ(སྨིན་གྲོལ་གླིང་དགོན་པ་ smin grol gling dgon pa/ニンマパ)での修行を終え、現在はインドとデンマークで活動中。
参考
・Thierry Dodin(1997) Negi Lama Tenzin Gyaltsen : A Preliminary Account of the Life of A Modern Buddhist Saint. IN:Henry Osmaston & Nawang Tsering (ed.) RECENT RESEARCH ON LADAKH 6 : PROCEEDINGS OF THE SIXTH INTERNATIONAL COLLOQUIUM ON LADAKH LEH, 1993. pp.93-98. Motilal Banarsidass, Delhi.
・fpmt > News/Media > Mandala Magazine > Archive > Mandala for 2000 > September > A new generation of Tibetan lamas (2000/09).
http://fpmt.org/mandala/archives/mandala-issues-for-2000/september/a-new-generation-of-tibetan-lamas/
おまけ:SunnamにあるNegi Chorten(ནེ་གི་མཆོད་རྟེན་ ne gi mchod rten)。クヌ・リンポチェの遺骨が納められている。
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(追記)@2016/01/24
参考文献にA new generation of Tibetan lamasを追加した。
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