2017年7月21日金曜日

カム小出し劇場 (3) デルゲ

20年位前に行った時の様子をまとめたもの。実用情報はもう使えないので省略。

2000年頃には、四川省チベットのほぼ全域が旅行者に開放されたが、この頃はまだダルツェンドの先は未開放だった。そのため、行く先々で緑の服を着た人たちに大人気で、彼らの職場にしょっちゅう招待されてました。

今も名目上は開放されているようだが、デルゲに入るのはなかなか厳しくなっているようだ。

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デルゲ སྡེ་དགེ sde dge徳格

ディ・チュー འབྲི་ཆུ་ 'bri chu 金沙江の支流シ・チュー ཟི་ཆུ་ zi chuに開けた谷間の町。日本の温泉町と似た風情。思ったより狭い街なので、外国人は目立つ。

カム最大の王国・デルゲ王国の都であった。デルゲ・パルカンとデルゲ・ゴンチェンの間にある建物が旧王宮らしい(現在は徳格中学)。


デルゲ主要部(Google Mapより)

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デルゲの歴史

デルゲ王は、吐蕃時代の有力氏族ガル མགར་ mgar氏の後裔。ガル氏の中では、ソンツェン・ガンポ སྲོང་བརྩན་སྒམ་པོ་ srong brtsan sgam po王の大臣で、文成公主を迎えるため唐に赴いたガル・トンツェン・ユルスン མགར་སྟོང་རྩན་ཡུལ་ཟུང་ mgar stong rtsan yul zung が最も有名。

ガル・トンツェンの息子たちは、698年に吐蕃王ティ・ドゥースン ཁྲི་འདུས་སྲོང་ khri 'dus srongによって滅ぼされたが、粛清を免れたガル氏族もいたようだ。

8世紀後半、ガル氏の一人でグル・リンポチェ གུ་རུ་རིན་པོ་ཆེ་ gu ru rin po che(パドマサンバヴァ पद्मसम्भ)の弟子とされる僧アムニェ・チャンペー・ペル ཨ་མྱེ་བྱམས་པའི་དཔལ་ a mye byams pa'i dpalが、カムのリン གླིང་ gling(リンツァン གླིང་ཚང་ gling tshang 林葱/嶺倉(デルゲの北))に移り住み、吐蕃帝国から自治権を与えられていた。チャンペー・ペルはガル・トンツェンの息子、とする説もあるが疑わしい。

13世紀になると、この後裔はサキャパ ས་སྐྱ་པ་ sa skya paのパクパ འཕགས་པ་ 'phags paによりカムの行政権を与えられ、勢力を拡大した。

15世紀にロドゥ・トブデン བློ་གྲོས་སྟོབས་ལྡན་ blo gros stobs ldan王がデルゲに都を移した。タントン・ギャルポ ཐང་སྟོང་རྒྱལ་པོ་ thang stong rgayl poを招聘し、デルゲ・ゴンチェンの建設を始めたのもこの王である(完成は17世紀半ば)。

1639年のグシ・ハーン གུ་ཤྲི་ཁཱན་ gu shri khAnによる侵略の際にはなんとかその地位を保ったものの、ラサ政府の影響下に置かれるようになった。

18世紀、テンパ・ツェリン བསྟན་པ་ཚེ་རིང་ bstan pa tshe ring王のもと、デルゲ王国は周囲の諸国を広く征服し、その最盛期を迎えた。1729年にはデルゲ・パルカンも完成した。

1863年には、他のカムの王国と同じく、ニャロン王 ཉག་རོང་དཔོན་པོ་ nyag rong dpon poゴンポ・ナムギャル མགོན་པོ་རྣམ་རྒྱལ་ mgon po rnam rgyalに屈し、一時王は廃位されたが、1865年ゴンポ・ナムギャルがラサ軍に鎮圧されると、デルゲ王はその地位を取り戻した。

1900-08年、ドルジェ・センゲ རྡོ་རྗེ་སེང་གེ་ rdo rje seng ge王とその弟ンガワン・ジャンペル・リンチェン ངག་དབང་འཇམ་དཔལ་རིན་ཆེན་ ngag dbang 'jam dpal rin chenによる王位争いが続いた。この内紛に乗じて趙爾豊率いる四川軍が侵入し、兄弟を追放し中国領とした。しかし、1917年にはラサ軍がデルゲを奪還し、王は復位した。

1950年、人民解放軍が侵攻を開始し、デルゲにも共産党員が駐在するようになる。カム地方の人々は共産主義改革に反発し反乱が頻発した。1957年、デルゲの人々も蜂起したがあっという間に中国軍に鎮圧された。デルゲ・ゴンチェンも破壊され、多数の僧が殺害された。デルゲ王国は、この時完全に滅亡した。

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デルゲ・パルカン སྡེ་དགེ་པར་ཁང་། sde dge par khang/ 徳格印経院


デルゲ・パルカン

1729年、デルゲ王テンパ・ツェリンによって完成された経典印刷所。デルゲ王はサキャパ(ンゴルパ)の施主であるが、パルカンは超宗派。現在は四川省文物局が管轄している。ナルタン・ゴンパ སྣར་ཐང་དགོན་པ་ snar thang dgon pa 那当寺のパルカンは、文革で完全に破壊されてしまったので、現在はここがチベット文化圏最大のパルカンである。

ペルプン・ゴンパ དཔལ་སྤུང་དགོན་པ་ dpal spung dgon pa 八邦寺(カルマ・カギュパ)の創設者、タイ・スィトゥ・リンポチェ8世 ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་སྐུ་འཕྲེང་བརྒྱད་པ་ ta'i si tu rin po che sku 'phreng brgyad pa(チューキ・チュンネ ཆོས་ཀྱི་འབྱུང་གནས་ chos kyi 'byung gnas、別名ツクラク・チューキ・ナンワ གཙུག་ལག་ཆོས་ཀྱི་སྣང་བ་ gtsug lag chos kyi snang ba)が、ここで1733年カンギュールを編集・開版した。1742年にはシュチェン・ツルティム・リンチェン ཞུ་ཆེན་ཙུལ་ཁྲིམས་རིན་ཆེན་ zhu chen tsul khrims rin chen監修のもとテンギュールも完成。このデルゲ版大蔵経は、同じころ完成したナルタン版大蔵経と並び最も広く普及した版である。この版木彫刻様式はグツェ派と呼ばれる。


デルゲ・パルカン 朝のコルラ

朝な夕なにここをコルラしている人の数は多い。デルゲ・ゴンチェンよりも人気が高いよう。パルカンから流れ出る墨混じりの水を、ありがたいものとして飲む人もいる。

3階建紅壁の立派な建物で、入口には番人もいる。残念ながら、この時は中には入れなかったので、内部の様子は、

・池田巧+中西純一+山中勝次 (2003.7) 『活きている文化遺産デルゲパルカン チベット大蔵経木版印刷所の歴史と現在』. 214pp. 明石書店, 東京.

などで見てほしい。

タルチョ、ルンタ類はパルカン前の売店で売っている。

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デルゲ・ゴンチェン སྡེ་དགེ་དགོན་ཆེན། sde dge dgon chen/ 徳格更慶寺


デルゲ・ゴンチェンのドゥカン入口

ルンドゥプテン・ゴンパ ལྷུན་གྲུབ་སྟེང་དགོན་པ་ lhun grub steng dgon paとも呼ばれる。サキャパの分派ンゴルパ ངོར་པ་ ngor pa。

1448年、ロド・トブデン王がタントン・ギャルポを招き建設を開始した。完成したのは、17世紀半ばラチェン・チャムパ・プンツォク ལྷ་ཆེན་བྱམས་པ་ཕུན་ཚོགས་ lha chen byams pa phun tshogs王の時。サキャパの方式を受け継ぎ、デルゲ王のおじ甥相続で維持発展していった。

1957年、共産主義政策に対する反乱の最中に中国軍によって大規模に破壊された。しかし、近年復興が進み今では300人ほどの僧がいる。

ツァンのンゴル寺に次ぐンゴルパの重要な寺院で、かつてはンゴル寺の座主が退職すると、このデルゲ・ゴンチェンで教授することになっていた。この時は12時間続く大きな法要が行われていて、ンゴル寺からも多くの僧が出張して来ていた。

デルゲ・パルカンのさらに奥にドゥカンを中心とし、いくつかラカン・僧房群が建ち並ぶ。


デルゲ・ゴンチェン平面図(出版用の整理はしていないので見にくいと思う)

ドゥカン དུས་ཁང་ dus khang/ツァムカン འཚམས་ཁང་ 'tshams khang 1~3

マニ車と転法輪のある通路を抜けると中庭に出る。正面がドゥカンの入口。反対側には小坊主のタツァン གྲྭ་ཚང་ grwa tshang(学校)もある。

ドゥカンはかなり広く、正面奥にリンポチェの席と諸尊像を祠った棚がある。壁画はごく新しいものだが、素晴らしい出来。左壁に一群のイダム・ヤプユム ཡི་དམ་ཡབ་ཡུམ་ yi dam yab yumの壁画があり、布がかけてある。またその前には忿怒尊像が多数立ちはだかる。

ドゥカンの裏手にはツァムカンが3つ。左手にはグル・リンポチェと護法尊、真ん中にはジョウォ・リンポチェ ཇོ་བོ་རིན་པོ་ཆེ་ jo bo rin po cheを中心とするドゥスム・サンギェ འདུས་གསུམ་སངས་རྒྱས་ 'dus gsum sangs rgyas 三世仏とネシェ・ゲ ཉེ་སྲས་བརྒྱད་ nye sras brgyad 八菩薩+ギャルチェン・シ རྒྱལ་ཆེན་བཞི་ rgyal chen bzhi 四天王、右手にはチャムパ  byams pa བྱམས་པ་ 弥勒菩薩とネテン・チュードゥク སགནས་བརྟན་བཅུ་དྲུག gnas brtan bcu drug 十六羅漢が祠ってある。いずれも新しいものばかりだが、古そうな寺院の構造、密教色の濃い像・壁画といいなかなか興味深いゴンパである。

ヤネ・ラカン དབྱར་གནས་ལྷ་ཁང་ dbyar gnas lha khang

ドゥカンの隣りにある小さなラカン。小坊主多し。ここもごく新しいものばかり。主尊はシャキャ・トゥバ ཤཱ་ཀྱ་ཐུབ་པ་ shA kya thub pa。
 
その他のラカン

ヤネ・ラカンのすぐ上手にもう一つラカンがある。また広場を挟んだ東はずれにも古そうな小ラカンがある。

タンギェル・ラカン ཐང་རྒྱལ་ལྷ་ཁང་ thang rgyal lha khang

パルカン、ゴンチェンとは谷を挟んだ対岸、南の山手にある。タントン・ギャルポを祠っているらしい。

大チョルテン

町の北はずれに高さ15mの大チョルテンがある。3段基壇のナムギャル型。新しいもの。四隅に4色の小チョルテンが立っており、これは全体で5如来を表わしたものか?。ヘルミカ(平頭)には目もついている。

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参考文献は準備中。調べたのはだいぶ昔なので、少し手間がかかるのだ。

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